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中村伸郎 〜考え抜かれ、磨き抜かれたセリフ〜

2020.03.04
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 小津安二郎監督の『秋刀魚の味』(1962年)を観たのはだいぶ前のことだが、最初にこれを観た時から中村伸郎の存在が気になっていた。中村が演じているのは、笠智衆扮する主人公の旧友で、男だけの集まりで酒を飲みながら毒のある冗談を飛ばす中年男の役だ。皮肉っぽいがお人好し、身なりが良くてモダンで清潔感があり、話しぶりは軽妙、仲間にとっては「面白い奴」なのだろう。でもプライドが高くて神経質な感じがあり、赤の他人が馴れ馴れしく話しかけても無視されそうだ。

 脇役の中にそんな奥行きが出ているのも、稀代の名優が演じているからだろう。中村の役者歴は長く、1932年にキャリアをスタートさせている。文学座には1937年の結成時から参加し、後に幹部も務めた。演じた役柄は幅広い。その演技について、文学座の創設者である岸田國士は、こんな風に書いている。

「近代俳優の特色が、いはゆる限られた役柄をもたぬところにあるとすれば、中村伸郎はまさに、さういふ俳優の一人である。繊細かと思ふと案外図太く、飄々乎としてゐる半面になかなか手堅いところもある」
(岸田國士『文学座三月公演 キティ颱風 パンフレット』)

 加えて、「俳優としての持ち味」で勝負するタイプではなく、「そのスタイルの陰翳によって、人物を滋味豊かなものとする」タイプとも評している。杉村春子のような派手さはないが、文学座になくてはならぬ存在だった。映画の方では、主人公の上司、あるいは医者、博士、法律家、役人などのいわゆるホワイトカラーの役を多く演じ、クセのある脇役として知名度を上げた。小津映画ではそのクセ者ぶりが憎めないものとして表現されているが、その逆を行くのが黒澤明の映画であり、『生きる』(1952年)の性悪な助役など憎々しいばかりだ。

 中村の役者人生と日本演劇史を絡めて論じた如月小春著『俳優の領分』には、貴重なインタビューが多く収録されている。その発言を読むと、我々の耳に残るあの洗練された台詞の表現が試行錯誤を経たものであったことが分かる。三島由紀夫はそんな中村の演技をこのように評していた。

「現今の新劇俳優で、セリフと間において、中村伸郎氏以上の人を私は知らない。少しもケレンがなく、ギラギラしたところがなく、いはゆる花に乏しい憾みはあるけれど、中村氏のセリフぐらゐ、よく考へ抜かれ、磨き抜かれ、感情のどんな些細な陰翳をものがさず、しかも正確無比、完璧なデッサン力を持ったセリフを、日本では他に聴くことができない」
(三島由紀夫「『聖女』と『煙草の害について』」)

 三島は己が書く台詞を完璧に表現する役者として中村に敬意を払っていた。中村も17歳下の若き三島の才能に惚れていた。そして、1963年に三島由紀夫の『喜びの琴』上演中止事件が起こると、中村は三島に追随し、文学座を脱退した。

「僕はあのころ、三島由紀夫の戯曲に心酔していましてね、今は三島由紀夫しかやりたい芝居はないという気持ちだったから、三島由紀夫が出ていくんならーー出ていったって必ずどこかで芝居をやるに違いないから、くっついていこうと思っていきました」
(如月小春『俳優の領分』)

 50代後半にして文学座幹部のポストを捨てた中村にとって頼みの綱は、三島だった。しかし、1970年11月25日、その三島が自決して世を去る。中村によると、誰かの結婚パーティーで三島が突然「君が代」を歌い出した時、様子がおかしいと思ったようだ。失意の後、中村は前衛劇、翻訳劇に活路を見出す。1972年の春、パリを旅行中にイヨネスコの『授業』と出会い、その年の秋に渋谷ジァン・ジァンで連続上演をスタートさせたのである。ここから、さらに別役実との出会いがあり、キャリアの円熟期を迎えることになる。

 『白い巨塔』(1978年)で東教授を演じたのは、そんな時期のことである。インテリというよりは、知性がありすぎて鋭利な感じが漂う、威厳に溢れた人物。だが、嫌味で人間臭いところもある。中村は目つきだけで何を考えているかを伝える。圧倒的な演技力だ。

 晩年になっても自分の演技を未熟と考え、修行を積んでいたこの名優は、派手な感情表現に傾きがちな新派的演技に興味を示さず、相手に熱演をぶつければいいという「熱演根性」(中村の言葉)とは距離を置き、「写実の基礎」を習得しようとしていた。その技は、観客がすぐ近くにいて、ちょっとした目つきにも気が抜けない小さな空間で『授業』を演じ続けることによって磨かれたようだ。

 中村が目指したのは大人の演技である。表情にしても、エロキューションにしても、内面の動きと細かいニュアンスを重んじる。そのやり方は小津安二郎監督から学んだようだ。黒澤作品にも出演しているが、「小津さんよりも役者を物として扱う」監督と評している。それが現場で味わった実感なのだろう。

 中村伸郎の演技を見ていると、セリフは名優によって生きるものだと、つくづく思わされる。その洗練された語り口はとても粋で、言葉が持つ感触と感情をバランスよく正確に伝える。それは久保田万太郎、岸田國士、福田恆存、三島由紀夫などそうそうたる作家たちが追求した日本語表現にもまれた賜物だろう。そして、卓越した台詞表現を身につけた後、前衛劇の世界に入り、計算のなさ、躊躇のなさ、自然さを会得したように見える。

 別役実とは長く仕事を共にし、『メリーさんの羊』や『諸国を遍歴する二人の騎士の物語』などで高く評価された。その別役が、舞台上での中村の在り方を、ヨーロッパ的な「存在感」と区別し、「たたずまい」と表現している。言い得て妙だ。

 新しい才能と仕事をする姿勢は終生変わらず、映画の方でも伊丹十三の『たんぽぽ』(1985年)や市川準の『BU・SU』(1987年)に出演し、忘れがたい「たたずまい」を見せた。『たんぽぽ』では、高級中華料理店で詐欺師の男の財布を盗ろうとする洒落者のスリを好演。刑事に逮捕された時、「旦那、お願いです。すみませんが、これ、もう一つだけ」と言って、北京ダックを食べる演技がお茶目である。

 脇役や端役が多いので、どの映画を観ても出番は少ない。そんな中で上位に入るくらい出番が多いのが、東宝の特撮映画『宇宙大怪獣ドゴラ』(1964年)だ。映画の内容はパッとしない。宝石強盗のエピソードが無駄に長いし、肝心の怪獣が出てきたと思ったらクラゲのような足しか見えない。ただ、嬉しいことに、中村が宇宙生物の謎に迫る博士の役で出演し、その知性、品性、飄逸さを存分に示している。作品はともかく、演技は絶品だ。

 渋谷ジァン・ジァンで演じた『授業』の音源もレコードで出ている。これを聴けば、当時円熟期にあった中村の繊細な表現力、鮮やかなエロキューションを味わうことができる。この舞台は演劇史に残る偉業なので、願わくはCD化ないしデジタル化してほしいところだ。
(阿部十三)


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[中村伸郎 略歴]
1908年9月14日、北海道生まれ。東京開成中学校を卒業。画家を目指していたが、役者の道に進み、1932年に築地座の第一期研究生に。文学座には1937年の結成時から参加し、岸田國士、久保田万太郎、森本薫らの作品に出演した。1950年代には文学座の理事を務めていたが、1963年に三島由紀夫の『喜びの琴』の上演中止事件が起こると、三島と共に文学座を退団。劇団NLT、浪曼劇場を経て、1972年から11年間、渋谷の小劇場ジァン・ジァンで、イヨネスコの前衛劇『授業』を上演、話題をさらった。映画界では、小津作品、黒澤作品などで脇役として重宝されていた。文才もあり、エッセイ集を出版している。晩年も映画・舞台で洗練された演技を見せていたが、1991年7月5日に心不全で亡くなった。