映画 MOVIE

上原謙 〜天下の二枚目〜

2023.05.15
uehara ken j1
 上原謙は戦前の松竹を代表する二枚目スターである。1935年のデビュー時から絶世の美男子として注目を浴び、佐分利信、佐野周二と共に「松竹三羽烏」と称された。かつて杉村春子は上原のことを「いい男で仰ぎ見るような人」と評していたが、それは誇張でも何でもない。天下の二枚目といえば、まず上原謙である。

 戦前の代表作は、『有りがたうさん』(1935年)、『浅草の灯』(1937年)、『婚約三羽烏』(1937年)、『愛染かつら』(1938年)である。特に『愛染かつら』は日本映画史上、空前のヒット作となり、主題歌「旅の夜風」も大流行した。男女の「すれ違い」を描いたストーリーと、上原謙のカッコよさに女性たちが熱狂したのである。その人気は天井知らずだった。
 もっとも、1984年に出版された自伝『がんばってます 人生はフルムーン』によると、上原が「もっとも嫌いな映画」は『愛染かつら』だという。当時、女性の観客をドキドキさせた有名な「新橋駅のすれ違い」の場面についても、「ばかばかしい」と手厳しい。ヒロイン役の田中絹代とも気が合わず、「どうしても融け込めぬ」と感じていたらしい。

 女優の中で相性が良かったのは桑野通子である。2人は『彼と彼女と少年達』(1935年)以来、何度も共演を重ね、「アイアイ・コンビ」と呼ばれた。超がつくほどの美男美女、息も合っていた。恋の噂もあった。しかし、私生活上のパートナーだったわけではない。
 上原のパートナーは小桜葉子である。2人は1936年に結婚した。人気上昇中の二枚目俳優が結婚を発表するのは珍しく、撮影所の所長・城戸四郎は反対したが、上原が押し切った。翌年(1937年)に生まれた子供・直亮が、後の加山雄三である。

 映画では「ヤワな男」ばかり演じているが、実際の上原は違ったようで、スターとして仕事をこなすだけでなく、佐分利信、佐野周二、徳大寺伸、近衛敏明、夏川大二郎と8クラブを結成し、講演会や芝居を主催した。8クラブという名称は上原が付けたもので、映画が「第八芸術」と呼ばれていたことに由来している。1942年の舞台公演では夏川大二郎と共に演出を務め、「映画にはない舞台の醍醐味」に目覚めた。

 俳優として面白くなるのは戦後である。まず1945年12月に松竹を退社し、フリーの映画俳優に転身。翌年は仕事にありつけず、上原謙一座を結成し、旅巡業を行い、経験を積んだ。1947年から映画出演作が急増し、1948年の芸能人長者番付では堂々一位に。この時期の映画では、シベリア抑留問題と夫婦愛を扱った『異国の丘』(1949年)が印象的だ。シベリアから帰還し、家族と再会したとき、夫(上原謙)は喜びの感情をあらわにしない。一見、虚脱している。しかし、顔にも声にも表せない万感の思いが伝わってくる。

 戦後の代表作は、成瀬巳喜男監督の『めし』(1951年)である。大阪で暮らす夫婦、岡本初之輔(上原謙)と三千代(原節子)は倦怠期を迎えている。三千代は家事に追われるだけで刺激のない日々に飽きている。そこへ初之輔の姪・里子(島崎雪子)が転がり込んでくる......。会社では真面目だが、家では面倒くさがりで、決して悪い夫ではないが、妻に対して優しさやいたわりを表現することのできない男。上原はそれを無理なく演じ、普遍的な人物像にまで昇華させ、二枚目のイメージから脱却した。
 若い頃の上原は、言ってしまえば大根役者で、演技面で評価されることは少なかったが、『めし』の演技を成瀬監督から褒められ、自信をつけたようだ。その後も成瀬映画に出演し続け、『夫婦』(1953年)、『妻』(1953年)、『山の音』(1954年)、『晩菊』(1954年)などで、男のずるさ、だらしなさ、やるせなさ、優柔不断さ、嫉妬深さをデリケートに表現し、成功。『夫婦』と『妻』で毎日映画コンクール主演男優賞を受賞した。

 『山の音』は川端康成原作だが、映画は小説とは別物である。尾形修一(上原謙)はろくでなしの夫で、妻の菊子(原節子)は義父の信吾(山村聰)のことを頼りにしている。信吾も菊子のことを大事に想っている。この義父と義娘の関係がベタベタしすぎている。こんな父親と嫁がいる家に帰っても、夫は不快になるだけだろう。クールな雰囲気を漂わせ、シニカルに余裕を見せながらも、修一の感情が鋭く動いているのがわかる。率直に言うと、あまりにも哀れっぽい役は原節子には合わないし、山村の愛情表現も強すぎる。ただ、上原の演技だけがリアルに見える。

 吉村公三郎監督の『夜の河』(1956年)は女心の機微を描いた傑作。仕事一筋に生きてきた京染屋の娘(山本富士子)と、大学教授で既婚者の竹村(上原謙)の恋愛が主題である。山本富士子の華々しさに比べて、上原謙は控えめすぎる感じがするが、持ち前の清潔感を生かし、上品に見せている。どこに本音があるのか分からないような雰囲気だ。強引さのかけらもない。だからこそ心の底にある思惑が表に出てきた時、ひどく生々しく、醜いものに感じられる。
 吉村監督は上原の繊細な演技をこのように評価している。
「上原君はずっと美男の二枚目だった。見る方からいうと美男スターは芝居がまずいときめてかかっている。これが上原君を損させているんです。いまの上原君は巧い俳優ですよ」

 1970年代に入ると不幸な出来事が続く。1970年に妻を病気で亡くし、それから程なくして、自ら投資していたパシフィックパークホテルが倒産したのである。以後、莫大な負債を抱え、マスコミに叩かれ、気が滅入るような日々を送っていた。そんな時に出会った38歳下の女性と再婚(1975年)。子供が生まれた時は、「力の続くかぎり働こうと決心した」という。
 1980年代からは再び映画やドラマに出演するようになった。その口火を切ったのは、高峰三枝子と共演した国鉄「フルムーンキャンペーン」のCMである。これが大きな話題を呼び、上原謙の名前は若い世代にも浸透した。晩年(1991年)は再婚相手との離婚が話題になったが、俳優としては戦前からスター街道を突き進み、苦難を踏み越えて80歳まで仕事をやり抜き、我が子が大スターになるまで見届けた(上原は加山雄三のことを「私の最高傑作」と呼んだ)のだから、人生を満喫したと言っていいだろう。


【関連サイト】
[上原謙 略歴]
1909年11月7日、東京生まれ。本名は池端清亮。軍人の子である。立教大学を卒業後、1935年に松竹入社。同年、清水宏監督の下でデビューし、人気を獲得した。1936年、兵役につくが、病気により除隊。「松竹三羽烏」として売り出し、1938年の『愛染かつら』で国民的スターに。戦後は松竹を辞めてフリーになり、旅巡業を経て、映画界に復帰。成瀬巳喜男監督のもとで演技開眼し、煮え切らない夫役を多く演じた。1980年代に国鉄「フルムーンキャンペーン」のCMで再び脚光を浴びたが、1991年11月23日、急性心不全で死去。私生活では2度結婚。息子は加山雄三である。