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1970年代のアラン・ドロン

2024.01.19
事件の後

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 アラン・ドロンについて書かれた記事に必ずと言っていいほど出てくるトピックが2つある。1960年の映画『太陽がいっぱい』で人気が爆発したこと、そして美男子の代名詞的存在であることだ。今でも「最高の美男俳優は誰か」と質問されて彼の名前を挙げる人は多い。そのイメージからは、華やかで輝かしい人生しか想像できないだろう。しかし、実際のドロンは順調にスター街道を走り続けていたわけではない。山あり谷ありで、ピンチに陥っていた時期もあった。

 1968年、付き人兼ボディーガードのステファン・マルコヴィッチが何者かに射殺された。ドロンは重要参考人として召喚され、50時間以上尋問された。マスコミが大騒ぎしたことは言うまでもない。やがてマフィアとの繋がりを暴かれ、妻ナタリー・ドロンとマルコヴィッチの関係にも疑惑の目を向けられた。マルコヴィッチが経営していた社交クラブの常連客に政治家のジョルジュ・ポンピドゥー夫妻がいたことも明らかになった。事件は迷宮入りしたが、ドロンのイメージはかなりダーティなものとなった。

 常人ならここでキャリアを終えているところだが、ドロンは常人ではない。この事件の後、彼はギャング、殺し屋、前科者、性格が歪んだ男など、社会からはみ出したダーティな役を積極的に演じるようになった。悪化したイメージを逆手に取ったのである。演じるだけでなく、アデル・プロダクションを率いて映画製作にも乗り出し、主演作を次々とプロデュースした。プライベートではナタリーと離婚、ミレーユ・ダルクと交際し、パートナーとして公私にわたり支え合っていた。

渋みと哀愁

 一般的にアラン・ドロンの全盛期といえば1960年代を指すが、本当に役者として面白くなってくるのは1970年代からである。代表作は『高校教師』(1972年)、『ビッグ・ガン』(1973年)、『暗黒街のふたり』(1973年)。いずれも暗い映画だが、生きることの哀しさを描いた傑作である。ドロンの顔には皺が出て、渋みと哀愁が漂っている。それまでは美貌を武器にするニヤけたハイエナという印象が少なからずあったが、この辺りになると、味のある大人の男へと変貌し、本当の意味でカッコよく見える。

 『高校教師』はヴァレリオ・ズルリーニ監督作。田舎町の高校に赴任した既婚の不良教師ダニエレは、美しい女生徒ヴァニナに興味を抱く。暗い過去を持つ2人は惹かれ合うが......という話。ドロンは髭面に、着古したコート姿。町の景色はどこか侘しい。前半はドロンのやさぐれたカッコよさを強調する演出で、美男美女が結ばれる話のように見せておきながら、一気に惨めなムードになるところが素晴らしい。ヴァニナ役のソニア・ペトローヴァの美貌が眩しい。ジャンカルロ・ジャンニーニ、レナート・サルヴァトーリ、アリダ・ヴァリと役者も豪華だ。

 『ビッグ・ガン』はドゥッチョ・テッサリ監督作。マフィアに雇われている殺し屋トニーは、家族のために足を洗おうとするが認められず、命を狙われる。マフィアが仕掛けた爆弾によって妻子を失ったトニーは、復讐に燃え、幹部を皆殺しにしていく......。無感情にマフィアを殺しまくる時と、人間味のある表情を見せる時の演技がそれぞれ素晴らしい。殺し屋役だと『サムライ』(1967年)が有名だが、救いのない喪失感を表現した『ビッグ・ガン』の方がストーリーとしては面白い。ちなみに、腕時計は『サムライ』の時と同じくボーム&メルシエをつけている。

 『暗黒街のふたり』はジョゼ・ジョヴァンニ監督作。強盗罪で服役していたジーノは、保護観察司ジェルマンの助力で仮出所し、真面目に暮らそうとする。しかし、かつてジーノを逮捕した警部にあの手この手で嫌がらせをされ......。哀愁をたたえた微笑み、胸にあふれる悲しみと怒り。ドロンの感情表現はこまやかで、心の機微が無駄なく伝わってくる。ジェルマン役のジャン・ギャバンは貫禄たっぷりで、台詞にも含蓄がある。ストーリーは暗いが抒情性に富んでいて、風景描写も音楽も美しい。ただ、邦題には難がある(原題は『街の二人』)。

ジョゼフ・ロージーとの仕事

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 ほかにも様々な作品に出ているが、ギャング役では『ボルサリーノ』(1970年)、『仁義』(1970年)、『友よ静かに死ね』(1977年)、刑事役(あるいは予審判事役)では『リスボン特急』(1972年)、『燃えつきた納屋』(1973年)、『フリック・ストーリー』(1975年)がよく知られている。ただ、これらの映画では、例えば『ボルサリーノ』のジャン=ポール・ベルモンド、『仁義』のイヴ・モンタン、『燃えつきた納屋』のシモーヌ・シニョレ、『フリック・ストーリー』のジャン=ルイ・トランティニアンのように、共演者の方が魅力的に見えたり、目立ったりしていることが多い。ドロンは製作者として関わることも多かったので、相手役を立てようとする意識があったのかもしれない。

 この時期は難役にも挑んでいる。ジョゼフ・ロージー監督の『暗殺者のメロディー』(1972年)で亡命したトロツキーの命を狙う胡散臭い暗殺者、『パリの灯は遠く』(1976年)でユダヤ人の所有物を安く買い取る美術商を演じきるドロンは、あたかも性格俳優のようだ。どこか無様で、倫理観が欠落していて、イメージの良くない役だが、役者としてやりがいを感じたのだろう。特に『パリの灯は遠く』での演技は成熟していて、カフカの『審判』のような不条理で寒々しい世界観の中に溶け込んでいた。この作品はセザール賞を受賞、製作者でもあったドロンは「最も誇りにしている作品」と語っている。

 倫理観が欠落している役は、『ショック療法』(1972年)や『プレステージ』(1977年)でも演じている。『ショック療法』は、悪徳医師が患者たちを怪しげな注射で若返らせるというスリラー作品。オチが見え見えで、アラン・ドロンとアニー・ジラルドのオールヌードの方ばかり話題になった。『プレステージ』は病的なまでに生き急いでいる美術商の無謀な挑戦を描いた作品。エドゥアール・モリナロによる演出はテンポが良く、安心して見ていられる。共演者ミレーユ・ダルクとの息もぴったりだ。あまり話題にならないが、男の飽くなき欲望とそこにつきまとう虚無感が表現されていて、私は傑作だと思っている。

 1970年代のアラン・ドロンの映画は、過去のあやまち、挫折、喪失をテーマにしたものが多い。ヌーヴェルヴァーグの豊作期を過ぎた当時のフランスで、多彩な作品を製作し、映画界を盛り上げた功績は、もっと評価されて良いだろう。私は若い頃、その良さがあまり分からず、「シケた映画ばかりだな」と思っていたものだが、中年になり、なんとなく疲れを感じることが多くなってから、『暗黒街のふたり』や『パリの灯は遠く』が胸にしみてくるようになった。大人だから理解できること、大人だから共感できることが、当時の作品には多いのである。
(阿部十三)


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[アラン・ドロン略歴]
1935年11月8日、フランスのオー=ド=セーヌ県ソーに生まれる。家庭に恵まれず、寄宿舎生活の孤独から度々問題を起こし、17歳で海軍に入隊。除隊後は放浪生活を送り、1956年に帰国。当時交際していた女優ブリジット・オベールの勧めでカンヌ映画祭を訪れ、その美貌が注目される。1958年、イヴ・アレグレ監督の『女が事件にからむ時』でデビュー。同年、『恋ひとすじに』でロミー・シュナイダーと共演し、婚約。1960年、ルネ・クレマン監督の『太陽がいっぱい』で人気が爆発した。以後、『若者のすべて』『太陽はひとりぼっち』『地下室のメロディー』『山猫』と話題作・文芸作に出演してキャリアを積み、実力を備えた役者へ。1968年、マルコヴィッチ事件でマスコミの標的にされるが、スキャンダルを逆手にとり、殺し屋役やギャング役などダーティな役を多く演じるようになる。1970年代には映画製作者としても成功を収めた。私生活ではロミー・シュナイダーと婚約破棄後、ナタリー・バルテルミーと結婚。マルコヴィッチ事件後に離婚し、ミレーユ・ダルクと同棲。その後、オランダ人モデルと再婚した。2019年カンヌ映画祭で名誉パルム・ドールを受賞。2023年、伝記『Amours et mémoires』が出版された。