戦前のイギリス映画界に咲いた名花 〜マデリーン・キャロルについて〜
2011.08.10
マデリーン・キャロルは戦前のイギリスを代表する美人女優である。知的な美貌と確かな演技力を備え、声も美しく、英語の発音も綺麗だった。アルフレッド・ヒッチコック監督は彼女のことを気に入り、英国時代に撮った『三十九夜』『間諜最後の日』ではヒロイン役に起用している。ヒッチコックがブロンド・ビューティー(ジョーン・フォンテーン、グレース・ケリー、ティッピ・ヘドレンなど)を偏愛していたことは広く知られているが、同じブロンド女優を2作連続メインで使ったのはマデリーンが初めてである。
人気女優として活躍したのは1920年代後半から。サイレントからトーキーへの変換期も軽々と乗り越えてスター街道を走っていたが、1931年、結婚のため映画界を退いた。1933年にカムバックした時は、人気が落ちるどころか益々上昇し、1934年にはジョン・フォード監督の『世界は進む』に出演。1935年にヒッチコックの『三十九夜』でその演技力と美貌を絶賛され、世界的スターの仲間入りをした。
『三十九夜』は、主人公が殺人の濡れ衣を着せられ、警察と犯人一味の両方に追われながら事件を解決するという、ヒッチコックお得意の「巻き込まれ型」サスペンス。突っ込みどころは沢山あるが、見どころも沢山ある。照明と音響が織りなす静と動のコントラスト、急行列車のシーンや政治演説会のシーンのカメラワーク、スピーディーなテンポ感、緊張感を押しつけるだけでなくロマンスやユーモアもちりばめるストーリーテリングのうまさ......とても上映時間が88分とは思えない奥行きを持った傑作だ。
この映画の最大の見せ場となっているのが、手錠のシーン。主演のロバート・ドーナットとマデリーン・キャロルが手錠につながれた状態で逃げ回るくだりは、手がちぎれるのではないかと心配になるほどお互い容赦なく引っ張り合っている。2人の息の合った演技も実に素晴らしく、私はこれを観て一発でマデリーン・キャロルのファンになった。
続く『間諜最後の日』の原作は、サマセット・モームの異色スパイ小説『アシェンデン』。もっとも、原作と言うよりは原案と言った方が適切だろう。それくらい両者の世界観はかけ離れている。
前作に比べると、ヒッチコックのカメラは明らかにマデリーンを美しく撮ることに固執しており、幾つかの場面は、ほとんどブロンド・ビューティーの鑑賞教材のようになっている。ストーリーも荒唐無稽である。映画としては良い出来とは言えない。音響の扱いのうまさやカメラワークの面白さは評価出来るが、救いはそれくらいだ。
相手役は英国演劇界の大スター、ジョン・ギールグッド。残念ながらギールグッドはマデリーンと呼吸を合わせようとしていない。そのため2人のやりとりに間合いのぎこちなさが感じられる。本来は『三十九夜』に続いてロバート・ドーナットが出演する予定だったが、健康上の問題で出られなくなったという。これがドーナットだったら、と思わずにはいられない。
『間諜最後の日』の後、マデリーンは本格的にハリウッドに進出し、『将軍暁に死す』『陽気な街』『ゼンダ城の虜』『封鎖線』などで人気をさらに高めた。こうして見ると作品には恵まれていたようである。ーーしかし、ある出来事が彼女の人生を一変させる。1940年10月に妹のマルゲリーテがロンドン空襲で亡くなったのだ。これにショックを受けたマデリーンは、戦争の犠牲者のために身を投げ出し、「マデリーン・ハミルトン」と名前を変え、赤十字の看護婦としてイタリアの野戦病院で働いた。戦争が終わってからもヨーロッパにとどまり、フランスで負傷者や戦災孤児の生活向上ために尽力していたというから、本物の活動家だったのだろう。その功績を讃えられ、レジオンドヌール勲章まで授与されている。
1948年に『Goodbye My Fancy』でブロードウェイに登場して成功を収めると、再びハリウッドから多数のオファーが舞い込んだらしいだが、映画にはほとんど出ず、テレビとラジオを中心に活動し、1960年代半ばに引退、スペインで余生を過ごした。
最近は同じ名前のティーン女優がいるので非常に紛らわしい。『三十九夜』『間諜最後の日』に出演したのが「Madeleine」、ティーン女優の方が「Madeline」という風に綴りは異なるのに、どちらも日本では「マデリーン・キャロル」と表記されている。もう少し先人に配慮してほしいものだ。
最後に、マデリーン・キャロルが出た「ミュージカル」について書いておく。1937年の『陽気な街』は、アーヴィング・バーリンが音楽を手がけたミュージカル映画であることには違いないが、マデリーンが歌うシーンは最後に一瞬しか出てこない。しかも吹き替えと思われる。マデリーン・キャロルの歌が聴けるものとばかり思っていた私は、呆れて笑うほかなかった。これはあくまでもディック・パウエルを観るための映画である。
【関連サイト】
Madeleine Carroll
マデリーン・キャロル(DVD)
人気女優として活躍したのは1920年代後半から。サイレントからトーキーへの変換期も軽々と乗り越えてスター街道を走っていたが、1931年、結婚のため映画界を退いた。1933年にカムバックした時は、人気が落ちるどころか益々上昇し、1934年にはジョン・フォード監督の『世界は進む』に出演。1935年にヒッチコックの『三十九夜』でその演技力と美貌を絶賛され、世界的スターの仲間入りをした。
『三十九夜』は、主人公が殺人の濡れ衣を着せられ、警察と犯人一味の両方に追われながら事件を解決するという、ヒッチコックお得意の「巻き込まれ型」サスペンス。突っ込みどころは沢山あるが、見どころも沢山ある。照明と音響が織りなす静と動のコントラスト、急行列車のシーンや政治演説会のシーンのカメラワーク、スピーディーなテンポ感、緊張感を押しつけるだけでなくロマンスやユーモアもちりばめるストーリーテリングのうまさ......とても上映時間が88分とは思えない奥行きを持った傑作だ。
この映画の最大の見せ場となっているのが、手錠のシーン。主演のロバート・ドーナットとマデリーン・キャロルが手錠につながれた状態で逃げ回るくだりは、手がちぎれるのではないかと心配になるほどお互い容赦なく引っ張り合っている。2人の息の合った演技も実に素晴らしく、私はこれを観て一発でマデリーン・キャロルのファンになった。
続く『間諜最後の日』の原作は、サマセット・モームの異色スパイ小説『アシェンデン』。もっとも、原作と言うよりは原案と言った方が適切だろう。それくらい両者の世界観はかけ離れている。
前作に比べると、ヒッチコックのカメラは明らかにマデリーンを美しく撮ることに固執しており、幾つかの場面は、ほとんどブロンド・ビューティーの鑑賞教材のようになっている。ストーリーも荒唐無稽である。映画としては良い出来とは言えない。音響の扱いのうまさやカメラワークの面白さは評価出来るが、救いはそれくらいだ。
相手役は英国演劇界の大スター、ジョン・ギールグッド。残念ながらギールグッドはマデリーンと呼吸を合わせようとしていない。そのため2人のやりとりに間合いのぎこちなさが感じられる。本来は『三十九夜』に続いてロバート・ドーナットが出演する予定だったが、健康上の問題で出られなくなったという。これがドーナットだったら、と思わずにはいられない。
『間諜最後の日』の後、マデリーンは本格的にハリウッドに進出し、『将軍暁に死す』『陽気な街』『ゼンダ城の虜』『封鎖線』などで人気をさらに高めた。こうして見ると作品には恵まれていたようである。ーーしかし、ある出来事が彼女の人生を一変させる。1940年10月に妹のマルゲリーテがロンドン空襲で亡くなったのだ。これにショックを受けたマデリーンは、戦争の犠牲者のために身を投げ出し、「マデリーン・ハミルトン」と名前を変え、赤十字の看護婦としてイタリアの野戦病院で働いた。戦争が終わってからもヨーロッパにとどまり、フランスで負傷者や戦災孤児の生活向上ために尽力していたというから、本物の活動家だったのだろう。その功績を讃えられ、レジオンドヌール勲章まで授与されている。
1948年に『Goodbye My Fancy』でブロードウェイに登場して成功を収めると、再びハリウッドから多数のオファーが舞い込んだらしいだが、映画にはほとんど出ず、テレビとラジオを中心に活動し、1960年代半ばに引退、スペインで余生を過ごした。
最近は同じ名前のティーン女優がいるので非常に紛らわしい。『三十九夜』『間諜最後の日』に出演したのが「Madeleine」、ティーン女優の方が「Madeline」という風に綴りは異なるのに、どちらも日本では「マデリーン・キャロル」と表記されている。もう少し先人に配慮してほしいものだ。
最後に、マデリーン・キャロルが出た「ミュージカル」について書いておく。1937年の『陽気な街』は、アーヴィング・バーリンが音楽を手がけたミュージカル映画であることには違いないが、マデリーンが歌うシーンは最後に一瞬しか出てこない。しかも吹き替えと思われる。マデリーン・キャロルの歌が聴けるものとばかり思っていた私は、呆れて笑うほかなかった。これはあくまでもディック・パウエルを観るための映画である。
(阿部十三)
【関連サイト】
Madeleine Carroll
マデリーン・キャロル(DVD)
[マデリーン・キャロル略歴]
1906年2月26日イギリスのウェスト・ブロムウィッチ生まれ。バーミンガム大学を卒業後、演劇界へ。1928年シンクレア・ヒル監督の『The Guns of Loos』で注目されるが、1931年に結婚のため一時引退。1933年にカムバックし、1935年アルフレッド・ヒッチコック監督の『三十九夜』でスターの座を獲得した。1936年以降はハリウッドに本格的に進出して話題作に続々出演。1940年に妹を亡くしてからは赤十字の看護婦になり、ヨーロッパへ。レジオンドヌール勲章を授与される。1950年代はテレビ、ラジオを中心に活動。1960年代半ばに引退し、スペインで暮らす。1987年10月2日膵臓癌で死去。結婚は4回。2度目の夫は俳優のスターリング・ヘイドン。
1906年2月26日イギリスのウェスト・ブロムウィッチ生まれ。バーミンガム大学を卒業後、演劇界へ。1928年シンクレア・ヒル監督の『The Guns of Loos』で注目されるが、1931年に結婚のため一時引退。1933年にカムバックし、1935年アルフレッド・ヒッチコック監督の『三十九夜』でスターの座を獲得した。1936年以降はハリウッドに本格的に進出して話題作に続々出演。1940年に妹を亡くしてからは赤十字の看護婦になり、ヨーロッパへ。レジオンドヌール勲章を授与される。1950年代はテレビ、ラジオを中心に活動。1960年代半ばに引退し、スペインで暮らす。1987年10月2日膵臓癌で死去。結婚は4回。2度目の夫は俳優のスターリング・ヘイドン。
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