『ラストコンサート』 〜取るに足らないメロドラマなのに〜
2011.08.28
白血病に冒された余命3ヶ月の少女ステラがこの映画のヒロインである。明朗快活なステラは、中年ピアニストのリチャードと病院で出会い、積極的にアタックする。絶望の中で生きているリチャードは、誰にも心を許すことなく田舎のバーでピアノを弾いて暮らしていたが、ステラとの交流をきっかけに、その人生が激しく動き始める。ステラの愛に励まされ、夢に挑戦すべく、パリで職を探すリチャード。まもなく彼はチャンスを掴む。しかし、ステラに残された時間はもう僅かしかなかった。
1976年に公開されたイタリア=日本合作映画で、撮影場所はフランス。主役の2人はイタリア人(パメラ・ヴィロレージ)とイギリス人(リチャード・ジョンソン)。この作品がどういう経緯で撮られたものかはよく分からない。有名監督が撮ったわけでもなく、有名なスターが出ているわけでもない。眩いほどの美男美女が出てくるわけでもない。人物描写も、編集も、お世辞にも巧いとは言えない。演奏シーンでリチャードが全然ピアノを弾いているように見えないところも、「もう少しどうにかならなかったのか」と思う。ストーリーはいわゆる難病モノ。結末は分かりきっている。はっきり言ってベタなメロドラマ以外の何物でもない。それなのに、観終わった後、しみじみと「良い映画を観た......」という充実感が残る。映画的には器用さのかけらもないが、捨てがたい素朴な美しさがあるのだ。そして一度観たら忘れられない感動的なラストシーン。余韻を味わいたくて、つい何度も観てしまう。
映画の魅力の大部分を占めているのは、ステルヴィオ・チプリアーニの音楽である。主軸となるのは「ラストコンサートのテーマ」と「ステラに捧げるコンチェルト」。「ラストコンサートのテーマ」の方は明るさと軽さの中にどことなく寂しげな趣があり、夕暮れ時に公園で遊ぶ子供たちの姿が見えてくるよう。「ステラに捧げるコンチェルト」はロマンティックなピアノ協奏曲で、王道の「メロドラマ」にふさわしい美しい旋律で魅了する。
どちらの曲もアレンジがなかなか凝っている。とくに楽器に合わせてステラやリチャードにメロディーを口ずさませるアイディアは秀逸で、声でしか表現できない、なんとも言えない郷愁感が生まれている(そこまで計算されていたかどうかは知る由もないが)。チプリアーニはカルト映画専門の作曲家、という程度の認識で止まっている人には、ぜひ観てもらいたいものだ。
あと、これはルイジ・コッツィ監督の功績だろうが、音楽の使い方に節度がある所も良い。後半、入院したステラとリチャードが語り合う場面は、今時の演出家なら無考えに音楽を垂れ流すところだが、この映画はそういう時には音楽を使わない。泣ける映画ではあるが、無理矢理泣かせてみせようというあざとさはない。リチャードがステラに対して慰めや気休めを言わないところもいい。そういうシーンを付け足そうと思えばいくらでも付け足すことが出来たはずなのに、ジメジメした部分をばっさり省いている。その分、文字通り「ラストコンサート」のシーンで盛り上げる。
ちなみに物語の前半の舞台はモン・サン=ミシェル〜コンカルノー、後半はパリである。その風景をストレートに切り取ったカメラも映画の素朴な雰囲気に合っている。撮影はロベルト・デットーレ・ピアッツォーリ。私は詳しくないが、製作を手掛けているオヴィディオ・アソニティスとよく仕事をしていたようで、『デンタクルズ』や『殺人魚フライングキラー』などにも2人の名前がクレジットされている。アソニティスと共同製作という形で名を連ねているのが日本ヘラルドの古川勝巳。この人の自伝にはもしかすると『ラストコンサート』のことが書かれているのかもしれないが、一度神保町の古本屋で見かけて以来、入手出来ないまま今日に至っている。
映画の本筋からは逸れるが、私は学生の頃に初めてこの作品を観てから今日までずっと「死ぬ時に聴く音楽」について考えている。
戦前、ダミアの「暗い日曜日」が自殺の聖歌と言われて放送禁止になったことがあったが、実際は(言うまでもなく)ダミアの声にも「暗い日曜日」のメロディーにも死を誘発する作用はない。自分の人生の最後の瞬間をこの曲で飾りたい、という人が多かっただけである。「死ぬ時に流したい音楽」と言うと縁起でもないが、それは単なる言い方の問題だろう。
人生を終える時に聴きたい音楽に選ばれるーーこれ以上作曲家にとって名誉なことがあるだろうか。私たち音楽好きにとっても、布団の上で聴きたい音楽を聴きながら息を引き取るというのは、理想的な死に方の一つではないかと思う。ただ、語弊がないように、ここでは自殺ではなく、病気と老衰限定ということにしておきたい。
自分の身に万が一のことが起こった時、誤った選曲をされて布団で不快な汗をかくことがないように、最後はこれを流してもらいたい、という意思表示は事前にしておいた方が良い。「死ぬ時に音楽なんか必要ない」と思っているであろう多数派には一笑に付されそうな話だが、人によっては保険なんかより大事な問題なのである。
【関連サイト】
ラストコンサート(CD)
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1976年に公開されたイタリア=日本合作映画で、撮影場所はフランス。主役の2人はイタリア人(パメラ・ヴィロレージ)とイギリス人(リチャード・ジョンソン)。この作品がどういう経緯で撮られたものかはよく分からない。有名監督が撮ったわけでもなく、有名なスターが出ているわけでもない。眩いほどの美男美女が出てくるわけでもない。人物描写も、編集も、お世辞にも巧いとは言えない。演奏シーンでリチャードが全然ピアノを弾いているように見えないところも、「もう少しどうにかならなかったのか」と思う。ストーリーはいわゆる難病モノ。結末は分かりきっている。はっきり言ってベタなメロドラマ以外の何物でもない。それなのに、観終わった後、しみじみと「良い映画を観た......」という充実感が残る。映画的には器用さのかけらもないが、捨てがたい素朴な美しさがあるのだ。そして一度観たら忘れられない感動的なラストシーン。余韻を味わいたくて、つい何度も観てしまう。
映画の魅力の大部分を占めているのは、ステルヴィオ・チプリアーニの音楽である。主軸となるのは「ラストコンサートのテーマ」と「ステラに捧げるコンチェルト」。「ラストコンサートのテーマ」の方は明るさと軽さの中にどことなく寂しげな趣があり、夕暮れ時に公園で遊ぶ子供たちの姿が見えてくるよう。「ステラに捧げるコンチェルト」はロマンティックなピアノ協奏曲で、王道の「メロドラマ」にふさわしい美しい旋律で魅了する。
どちらの曲もアレンジがなかなか凝っている。とくに楽器に合わせてステラやリチャードにメロディーを口ずさませるアイディアは秀逸で、声でしか表現できない、なんとも言えない郷愁感が生まれている(そこまで計算されていたかどうかは知る由もないが)。チプリアーニはカルト映画専門の作曲家、という程度の認識で止まっている人には、ぜひ観てもらいたいものだ。
あと、これはルイジ・コッツィ監督の功績だろうが、音楽の使い方に節度がある所も良い。後半、入院したステラとリチャードが語り合う場面は、今時の演出家なら無考えに音楽を垂れ流すところだが、この映画はそういう時には音楽を使わない。泣ける映画ではあるが、無理矢理泣かせてみせようというあざとさはない。リチャードがステラに対して慰めや気休めを言わないところもいい。そういうシーンを付け足そうと思えばいくらでも付け足すことが出来たはずなのに、ジメジメした部分をばっさり省いている。その分、文字通り「ラストコンサート」のシーンで盛り上げる。
ちなみに物語の前半の舞台はモン・サン=ミシェル〜コンカルノー、後半はパリである。その風景をストレートに切り取ったカメラも映画の素朴な雰囲気に合っている。撮影はロベルト・デットーレ・ピアッツォーリ。私は詳しくないが、製作を手掛けているオヴィディオ・アソニティスとよく仕事をしていたようで、『デンタクルズ』や『殺人魚フライングキラー』などにも2人の名前がクレジットされている。アソニティスと共同製作という形で名を連ねているのが日本ヘラルドの古川勝巳。この人の自伝にはもしかすると『ラストコンサート』のことが書かれているのかもしれないが、一度神保町の古本屋で見かけて以来、入手出来ないまま今日に至っている。
映画の本筋からは逸れるが、私は学生の頃に初めてこの作品を観てから今日までずっと「死ぬ時に聴く音楽」について考えている。
戦前、ダミアの「暗い日曜日」が自殺の聖歌と言われて放送禁止になったことがあったが、実際は(言うまでもなく)ダミアの声にも「暗い日曜日」のメロディーにも死を誘発する作用はない。自分の人生の最後の瞬間をこの曲で飾りたい、という人が多かっただけである。「死ぬ時に流したい音楽」と言うと縁起でもないが、それは単なる言い方の問題だろう。
人生を終える時に聴きたい音楽に選ばれるーーこれ以上作曲家にとって名誉なことがあるだろうか。私たち音楽好きにとっても、布団の上で聴きたい音楽を聴きながら息を引き取るというのは、理想的な死に方の一つではないかと思う。ただ、語弊がないように、ここでは自殺ではなく、病気と老衰限定ということにしておきたい。
自分の身に万が一のことが起こった時、誤った選曲をされて布団で不快な汗をかくことがないように、最後はこれを流してもらいたい、という意思表示は事前にしておいた方が良い。「死ぬ時に音楽なんか必要ない」と思っているであろう多数派には一笑に付されそうな話だが、人によっては保険なんかより大事な問題なのである。
(阿部十三)
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