映画 MOVIE

『ミスター・ノーボディ』 〜イタリア人が用意した「西部劇」の花道〜

2012.07.13
 『荒野の用心棒』(1964年)によって始まったマカロニ・ウエスタン・ブーム。しかし、1960年代末頃から人気は翳り始める。「滅茶苦茶にリンチされてボロボロになった主人公が、最後に華麗なガンプレイで大逆転する」「争い合っている2大勢力を主人公が上手く操って共倒れさせ、大金をせしめる」、といったワンパターンな内容に観客が飽きてしまったのだ。そんな状況を受けて、マカロニ業界は新機軸を模索し始める。グロテスクさや残虐性をエスカレートさせたホラー風味、カンフーと西部劇の強引なミックス、あからさまに007に影響されているブッ飛んだ秘密兵器の登場......などなど。元々かなり出鱈目な作風が目立つマカロニ・ウエスタンだが、この頃からさらにヘンテコリンなものが生まれるようになる。そんな中で安定した人気を集めたのが、コメディ的な要素を盛り込んだ路線だ。『ミスター・ノーボディ』(1973年)も、まさにこの流れから生まれた作品の一つ。しかし、他とは一線を画する魅力がある。

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 『ミスター・ノーボディ』の監督は、マカロニ・ウエスタンの巨匠セルジオ・レオーネの助監督を経て、『怒りの荒野』(1967年)なども手掛けたトニーノ・ヴァレリ。主演はテレンス・ヒル。フランコ・ネロに少し似ている外見なので、ニヒルな主人公を演じている作品もあるのだが、それとは異なるコメディ路線のウエスタンも、彼の十八番となった。本作で彼はボロボロの服、穴の空いたブーツを履いた風来坊を演じている。「ノーボディ(何者でもない存在)」と名乗る彼は、凄腕の老ガンマン・ジャック・ボーレガードにつき纏う。飄々と出没する彼の目的とは一体何なのか? ノーボディとジャックのやり取りを軸に物語は展開していく。
 ジャックを演じたのは、ヘンリー・フォンダ。「彼ほどの名優が何故」と不思議に思う人がいると思うが、スタッフのクレジットを見れば納得が行くだろう。本作の原案はセルジオ・レオーネなのだ。ヘンリー・フォンダは、レオーネ監督のマカロニ・ウエスタン第4作『ウエスタン』(1968年)に出演している縁がある。つまり『ミスター・ノーボディ』は低予算、行き当たりばったりの撮影によるB級映画ではなく、「レオーネ」という信頼のブランドの下で制作された本格派なのだ。

 しかし、「本格派」であり、よく練られたセリフと物語、センスの良いユーモア、ダイナミックなアクション・シーン、ゴージャスなセットや衣装などが満載であるというだけでは、『ミスター・ノーボディ』はこれほどまでの魅力を持たなかったであろう。僕が本作を初めて観たのは、小学校高学年の頃。長年「よく出来た娯楽作」としてしか記憶していなかったのだが、大人になって再び鑑賞した時、奥深さに気づいて衝撃を受けた。本作の重要な主題とは「引退」であると僕は感じたのだ。
 先述の通り、ノーボディはジャックにつき纏う。彼の目的とは憧れのガンマンに引退の花道を用意し、自身が後継者になることなのだと、徐々に明らかになる。そんな物語自体がハリウッド映画の黄金時代を彩った「西部劇」への賞賛、ある種、一時代の幕引きにもなっていると、本作は解釈出来る。ジョン・フォード監督による不朽の名作『荒野の決闘』(1946年)でワイアット・アープを演じたヘンリー・フォンダ。彼のためにイタリア人達が用意した最後の大舞台が『ミスター・ノーボディ』なのではないか? そういう視点で観ると、劇中でノーボディがお膳立てする、群盗ワイルドバンチとジャックの対決は一際深い意味を帯びて迫る。ライフルを手にし、たった1人で荒野を駆ける150人を迎え撃つジャック。彼はワイルドバンチ一味の馬のサドルバッグに仕舞われているダイナマイトを狙い撃ちする。発射される一発毎に起こる爆発、倒れる人間、馬、立ち昇る土煙は、本当に美しい。そして、「ジャックが西部の歴史に伝説を刻んでいる」という虚構に、「数々の西部劇に出演したヘンリー・フォンダのキャリアのクライマックスとも言うべき対決シーンである」という現実が鮮やかに重なっていく。このシーンで流れるエンニオ・モリコーネによる音楽も最高だ。ワーグナーの「ワルキューレの騎行」をモチーフとしたワイルドバンチのテーマソングは、やがて勇ましい進撃の調べを経て、詩情溢れる壮大なフィナーレへと収束。ジャックが伝説となったことを観客に鮮烈に印象づける。

 『ミスター・ノーボディ』は、さらに言うならば、セルジオ・レオーネのマカロニ・ウエスタン作家としての引退作品と捉えることも出来る。彼が製作に携わった『ミスター・ノーボディ2』(1975年)はあるものの、この映画にレオーネ的なテイストを見て取ることは殆んど出来ない。一方、『ミスター・ノーボディ』は登場人物の毛穴が見える顔のどアップ、決闘前の過剰なまでに長い静寂、登場人物を背後から捉えた画の多用なども含め、随所でレオーネ節が煌めいている。「レオーネ最後のマカロニ・ウエスタン」として位置づける人も少なくない。実際、本作のいくつかのシーンで、レオーネは演出を手掛けたらしい。監督を務めたトニーノ・ヴァレリは、「レオーネが手掛けた場面はほんの僅かにしか過ぎない。アクション・シーンは全て私の演出だ」と発言していて、真実に関しては諸説あるのだが......少なくともレオーネの息がかなりかかっている作品であるのは間違いない。

 物語の虚構と関わった人間の現実がオーヴァーラップしながら、一時代の終焉を告げる『ミスター・ノーボディ』は、とても不思議な映画だ。この作品の公開後、1970年代半ばあたりになるとマカロニ・ウエスタンは衰退、ハリウッド西部劇が制作されることもすっかり稀となる。確実に何かがこの頃終わったのだ。
(田中大)


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