『八月の濡れた砂』 〜あの夏の光と影〜
2012.08.14
藤田敏八監督の『八月の濡れた砂』は1971年8月25日に公開された。同時上映は蔵原惟二監督の『不良少女魔子』。この2本を最後に、日活がロマンポルノに移行したことは周知の通りである。それを意識したのか、『八月の濡れた砂』の舞台は湘南。その美しく広大な海を背景に、若者たちが〈太陽族〉も顔負けの暴走ぶりをみせる。しかし、いうまでもなく、彼らは〈太陽族〉ではない。時代は1970年代である。しらけのムードが漂っている。若者たちは投げやりで、飽きっぽく、何に対しても一貫した情熱を持つことができない。異性さえ、セックスさえ、持続する欲望の対象にはならない。ただ漫然と、生きている手応えを時折たしかめるかのように、思いつきで行動しているだけ。行動の一つ一つは滅茶苦茶なのに、ここまで熱さが伝わってこない映画も珍しい。
若者の非行を描いた映画は無数にあるが、私がその手の作品に共感を覚えることはほとんどない。そういう映画は、若者の性格を「実は傷つきやすい」とか「実はナイーブ」という風にみせて、それを非行の免罪符のようにしたがる。そのやり方は、私には生理的に受けつけられない。真にナイーブで傷つきやすい若者の大半は、みじめなほど不器用で、行動を起こすことすらできないものなのだ。
『八月の濡れた砂』は、「傷つきやすい」とか「ナイーブ」といったイメージを売り物にしない。村野武範演じる健一郎は、ドラスティックな行動原理の怪物として、校長を殴ったり、校舎の窓にサッカーボールを蹴りつけたり、義父のナポレオンを無断で飲んだり、義父をライフルで脅してヨットを盗んだり、他人の車を海に突っ込ませたり、崖から飛び込んで自殺ごっこをしたり、友人に無理やり童貞喪失をさせたり、すれ違った女性をシャワールームで犯したりする。ただし、そこには暴力や反抗に対する情熱が全く感じられない。行き場のない感情をその都度適当に吐き出しているだけである。唯一、情熱的に行動するのは、自分に対して「いつかはきっとひどい目に遭うわよ」といい放った真紀を狩人のように襲う時だけである。が、その感情も持続しない。
健一郎の友人として登場するのは清。演じているのは広瀬昌助だ。この清も、健一郎以上に無神経なところがある。集団強姦され、浜辺に捨てられた早苗に対して、「何人に犯られたんだい」ときくのは、その一例。彼に悪気は少しもない。まず自分が気になることを知りたがるばかりで、相手の心情を慮ることができないのだ。
後日、清は早苗と一緒に泳ぐことになる。波の動きがうっとりするほど艶かしい(撮影は名カメラマン、萩原憲治)。なんとなく良い雰囲気が漂い、普通ならラブシーンに進みそうなところだ。しかし、そこで清はとんでもないことをいう。「犯られた時のこと、今でも思い出すかい」ーー早苗はそっぽを向いて清から離れる。『太陽の季節』のような展開にはならないのである。
無軌道エピソードが続いていくだけのストーリーにみえるが、実はそんな単純なものではない。この映画には明確な主題がある。それは、色の関係からとらえることができる。健一郎のイメージカラーは赤(赤いパーカー、赤いシャツ、赤いタオルなど)。清のイメージカラーは青(青いシャツ、青いバイクなど)。健一郎は清に多大な影響を及ぼしている。清は健一郎のことを内心おそれながらも、抗いがたい磁力を感じている。そして最後は健一郎に焚きつけられて、早苗の姉、真紀を生け贄に選び、赤いペンキで塗られたヨットの上で犯す。ここで「赤が青に取り込まれる」という図式が成立する。そして、エンディングで石川セリが「私の海を真赤に染めて/夕陽が血潮を流しているの/あの夏の光と影は/どこへ行ってしまったの」と歌う時、謎は解ける。健一郎の赤は〈夕陽〉の赤、清の青は〈海〉の青なのだ、と。この映画で赤が象徴しているものは熱血、情熱ではなく、全ての終わりを予感させる〈夕陽〉なのである。つまり、青春の青い〈海〉が容赦なく迫る〈夕陽〉に染まり、一瞬だけ燃え上がるが、すぐ輝きを失う、そのプロセスを描いた映画なのだ。これを拡大解釈すると、『太陽の季節』で一世を風靡した日活の黄昏、斜陽を描いた作品とみることもできなくはない。
中には〈海〉を女性に置き換えようとする人もいるだろうが、この映画に出てくる女性は、青ではなく黄色のイメージで描かれている。健一郎と優等生・修司が喧嘩している時、間に立っている和子の服の色、早苗がヨット上で着ている水着の色が、それに相当する。その黄色に対し、健一郎も清も性行為に及ばない点は興味深い(前半、健一郎が和子に「しばらくだったな」と話しかけるシーンは意味深だが、2人が肉体関係にあったことを裏付ける話は出てこない)。
私が『八月の濡れた砂』を観たのは1990年代初頭である。その時は、「こいつら一体何なの」で終わった。健一郎のことも遅れてきた〈太陽族〉にしかみえなかった。1970年代に青春時代を送った人々が、「『八月の濡れた砂』っていうのは......」と熱く語るのにもついていけない気がしていた。しかし、そうはいいながら何回か観ているうちに、また、『冒険者たち』や『去年の夏』といった作品にふれるうちに、この映画の中に編み込まれたいろいろなものがみえてきた。そして今では青春映画の傑作だと思っている。登場人物の行動の一つ一つには共感できないかもしれないが、何をやっても満たされない、何をやっても感動が持続しない、にもかかわらず、ほかに方法も思いつかないので同じことを繰り返してしまう、という心のありようには多くの若者が共感を覚えるだろう。
最後に。この映画のポスターは羊頭狗肉も甚だしい。このような場面は一秒も出てこない。情熱的なキスシーンはない。甘いロマンスは期待するだけ無駄である。
【関連サイト】
『八月の濡れた砂』(DVD)
若者の非行を描いた映画は無数にあるが、私がその手の作品に共感を覚えることはほとんどない。そういう映画は、若者の性格を「実は傷つきやすい」とか「実はナイーブ」という風にみせて、それを非行の免罪符のようにしたがる。そのやり方は、私には生理的に受けつけられない。真にナイーブで傷つきやすい若者の大半は、みじめなほど不器用で、行動を起こすことすらできないものなのだ。
『八月の濡れた砂』は、「傷つきやすい」とか「ナイーブ」といったイメージを売り物にしない。村野武範演じる健一郎は、ドラスティックな行動原理の怪物として、校長を殴ったり、校舎の窓にサッカーボールを蹴りつけたり、義父のナポレオンを無断で飲んだり、義父をライフルで脅してヨットを盗んだり、他人の車を海に突っ込ませたり、崖から飛び込んで自殺ごっこをしたり、友人に無理やり童貞喪失をさせたり、すれ違った女性をシャワールームで犯したりする。ただし、そこには暴力や反抗に対する情熱が全く感じられない。行き場のない感情をその都度適当に吐き出しているだけである。唯一、情熱的に行動するのは、自分に対して「いつかはきっとひどい目に遭うわよ」といい放った真紀を狩人のように襲う時だけである。が、その感情も持続しない。
健一郎の友人として登場するのは清。演じているのは広瀬昌助だ。この清も、健一郎以上に無神経なところがある。集団強姦され、浜辺に捨てられた早苗に対して、「何人に犯られたんだい」ときくのは、その一例。彼に悪気は少しもない。まず自分が気になることを知りたがるばかりで、相手の心情を慮ることができないのだ。
後日、清は早苗と一緒に泳ぐことになる。波の動きがうっとりするほど艶かしい(撮影は名カメラマン、萩原憲治)。なんとなく良い雰囲気が漂い、普通ならラブシーンに進みそうなところだ。しかし、そこで清はとんでもないことをいう。「犯られた時のこと、今でも思い出すかい」ーー早苗はそっぽを向いて清から離れる。『太陽の季節』のような展開にはならないのである。
無軌道エピソードが続いていくだけのストーリーにみえるが、実はそんな単純なものではない。この映画には明確な主題がある。それは、色の関係からとらえることができる。健一郎のイメージカラーは赤(赤いパーカー、赤いシャツ、赤いタオルなど)。清のイメージカラーは青(青いシャツ、青いバイクなど)。健一郎は清に多大な影響を及ぼしている。清は健一郎のことを内心おそれながらも、抗いがたい磁力を感じている。そして最後は健一郎に焚きつけられて、早苗の姉、真紀を生け贄に選び、赤いペンキで塗られたヨットの上で犯す。ここで「赤が青に取り込まれる」という図式が成立する。そして、エンディングで石川セリが「私の海を真赤に染めて/夕陽が血潮を流しているの/あの夏の光と影は/どこへ行ってしまったの」と歌う時、謎は解ける。健一郎の赤は〈夕陽〉の赤、清の青は〈海〉の青なのだ、と。この映画で赤が象徴しているものは熱血、情熱ではなく、全ての終わりを予感させる〈夕陽〉なのである。つまり、青春の青い〈海〉が容赦なく迫る〈夕陽〉に染まり、一瞬だけ燃え上がるが、すぐ輝きを失う、そのプロセスを描いた映画なのだ。これを拡大解釈すると、『太陽の季節』で一世を風靡した日活の黄昏、斜陽を描いた作品とみることもできなくはない。
中には〈海〉を女性に置き換えようとする人もいるだろうが、この映画に出てくる女性は、青ではなく黄色のイメージで描かれている。健一郎と優等生・修司が喧嘩している時、間に立っている和子の服の色、早苗がヨット上で着ている水着の色が、それに相当する。その黄色に対し、健一郎も清も性行為に及ばない点は興味深い(前半、健一郎が和子に「しばらくだったな」と話しかけるシーンは意味深だが、2人が肉体関係にあったことを裏付ける話は出てこない)。
私が『八月の濡れた砂』を観たのは1990年代初頭である。その時は、「こいつら一体何なの」で終わった。健一郎のことも遅れてきた〈太陽族〉にしかみえなかった。1970年代に青春時代を送った人々が、「『八月の濡れた砂』っていうのは......」と熱く語るのにもついていけない気がしていた。しかし、そうはいいながら何回か観ているうちに、また、『冒険者たち』や『去年の夏』といった作品にふれるうちに、この映画の中に編み込まれたいろいろなものがみえてきた。そして今では青春映画の傑作だと思っている。登場人物の行動の一つ一つには共感できないかもしれないが、何をやっても満たされない、何をやっても感動が持続しない、にもかかわらず、ほかに方法も思いつかないので同じことを繰り返してしまう、という心のありようには多くの若者が共感を覚えるだろう。
最後に。この映画のポスターは羊頭狗肉も甚だしい。このような場面は一秒も出てこない。情熱的なキスシーンはない。甘いロマンスは期待するだけ無駄である。
(阿部十三)
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『八月の濡れた砂』(DVD)
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