「リヒャルト・シュトラウス」と一致するもの
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完璧主義者の美学 スタンリー・キューブリックの映画は、時代の制約を超えたところに存在している。 どんな巨匠が撮った傑作でも、それが作られた時代のモラルや技術等の制約と無縁ではあり得ない。「昔の作品だから、こういう表現にならざるを得なかったのだろう」とか「今ほど技術が発達していなかったから、ここまでが限界だったのだろう」といった感想を抱かせるものが大半である。...
[続きを読む](2014.01.14) -
美を紡ぐ23の弦楽器 23人のソロ弦楽奏者のための習作「メタモルフォーゼン」は、1944年に構想され、1945年3月13日から4月12日にかけて作曲された。当時リヒャルト・シュトラウスは80歳(誕生日は6月11日)。ガルミッシュの山荘に身を置いていた老作曲家は、戦況が悪化し、ミュンヘンやドレスデンやウィーンの歌劇場が爆撃を受けて破壊される中、筆をとり、失われ...
[続きを読む](2014.01.01) -
チェボターリの後継者 美貌と美声と才能に恵まれ、究極の才色兼備を体現した名歌手である。早世したマリア・チェボターリの正当な後継者といってもいい。その声は艶があって美しいだけでなく、清潔感があり、しかも聴き手の耳を威圧することなく、ホールの隅々にまで響くような浸透性を備えている。レガートのなめらかさも特筆もので、歌い口に気品がある。そして歌詞の世界を、理智的な...
[続きを読む](2012.11.28) -
音楽と詩のデリケートな関係「その詩は、音楽家が無意識の間に作った詩のように思えるし、その音楽は、詩人が無意識の間に作った音楽のように思える。それほどの域に達している」 これはクロード・ドビュッシーのオペラ『ペレアスとメリザンド』を評したポール・デュカの言葉である。オペラというと、題材がドラマティックで、歌手たちが競うように声を張り上げて歌っているイメージを持...
[続きを読む](2012.10.27) -
聴いてすぐそれと分かる声 かつてEMIのプロデューサー、ウォルター・レッグはマリア・カラスについてこのように評した。「カラスは、偉大なキャリアを築くための必要条件、聴いてすぐそれと分かる声の持ち主だった」 偉大な歌手の定義はいろいろあるだろうが、「聴いてすぐそれと分かる声」(an instantly recognizable voice)を所有していることが...
[続きを読む](2012.09.20) -
大作曲家も惚れたCMソング 口ずさんでいるだけで楽しい気分になる歌がある。その歌があれば、殺風景な道を歩いている間も、ピクニックで野山を闊歩しているような心持ちになってくる。「フニクリ・フニクラ」とは、まさにそんな歌である。 民謡のように親しまれている「フニクリ・フニクラ」だが、元々は1880年にヴェスヴィオ山に登山電車が敷設された時、観光客を呼ぶために作ら...
[続きを読む](2012.07.21) -
理想主義者としてのドン・ファン 伝説のプレイボーイ、ドン・ファンの名が文学史に刻まれたのは、1630年に出版されたティルソ・デ・モリーナの『セビリアの色事師と石の招客』からである。ここに描かれているドン・ファンは、「俺の心の中にある最大の喜びは、何よりもまず女を誘惑して、相手の名誉を台無しにして棄てるってことさ」と言い放ち、欲望の赴くまま次々と女たちをたぶら...
[続きを読む](2011.10.20) -
R.シュトラウスとカラヤンの理想 マリア・チェボターリはリヒャルト・シュトラウスのお気に入りだった。ヘルベルト・フォン・カラヤンによると、シュトラウスが理想としていた〈サロメ〉はチェボターリだったという。1970年代半ば、カラヤンもまたサロメ役に亡きチェボターリの声を求めていた。そうして見つけた歌手がヒルデガルト・ベーレンスである。カラヤンはリチャード・オズ...
[続きを読む](2011.07.02) -
完璧という言葉は、どこかお堅く隙のない、冷厳なイメージを人に与えがちである。「完璧は面白味がない」とも言われる。しかし、そこで揶揄されているものは、真の「完璧」ではない。柔軟さや奥深さ、大胆なところさえも含めて申し分のない時に、この言葉の意味は満たされる。 ジョージ・セルとは、まさにそういう音楽を手にした指揮者だった。彼は楽器間の音の配合に異常なまでに神経...
[続きを読む](2011.02.15)