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  •  ジャン・ドラノワは「トリスタンとイゾルデ」の伝説を現代によみがえらせた『悲恋』(1943年)の監督である。この映画は大ヒットし、脚本を手がけたジャン・コクトーは、「ドラノワがいなければ私はどうなっていたことか...」と書いて当時35歳の若き才能を称えた。これにより一流監督の仲間入りを果たしたドラノワは、『しのび泣き』(1945年)、『田園交響楽』(194...

    [続きを読む](2020.04.16)
  • 市民の勇気 「ツィヴィールクラージェ」というドイツの言葉がある。市民の(Zivil)勇気(courage)で、Zivilcourage。『飛ぶ教室』(2018年冬号)に掲載された那須田淳氏の「眠りの精とツィヴィールクラージェ」によると、ナチス政権の時代に反ナチの立場で抵抗した「白バラ」の活動などから広まった言葉で、ドイツの子どもの文化や教育の根底を支えている...

    [続きを読む](2020.01.13)
  •  『悪の華』は1857年に出版された詩集である。シャルル・ボードレールは当時36歳。それまでにも小説、詩、評論を発表しており、ウジェーヌ・ドラクロワ、エドガー・アラン・ポーの賛美者として一部に知られる存在であったが、『悪の華』によりセンセーションを巻き起こし、後に「これより重要な詩人はいない」(ポール・ヴァレリー)と言われるほどの存在になった。詩人が世を去る...

    [続きを読む](2015.03.07)
  • 「冷徹な思想家」のイメージ ド・ゴール将軍とは「いろいろあっても知的な交流は続いていた」ようである。将軍の手紙を読むと、いかにアロンの知性に敬服していたかが分かる。アロンも条件付きの擁護者として、将軍の評価すべきところは評価し、批判すべきところは批判するという公正さから逸脱することはなかった。左翼の敵、ド・ゴール主義者、体制のシンボルとみなされてはいたものの...

    [続きを読む](2014.11.01)
  • フランスの賢者アロン 最もすぐれたレイモン・アロン論は、すでにこの世に存在する。それはアロン自身の手により完成され、死の年(1983年)に出版された『回想録』である。彼はこの大著をもって自分の生涯を総括した。その記憶力と分析力が死ぬまで衰えていなかったことは、これを読めば分かる。 レイモン・アロンの名前は、ジャン=ポール・サルトルとポール・ニザンの高等師範学...

    [続きを読む](2014.10.25)
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