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血となり肉となる文学 中島敦の『光と風と夢』は、作家ロバート・ルイス・スティーヴンソンの日記という体裁で書かれている。しかし、その言葉はあくまでも中島自身のもの、彼の思想ないし信条の投影である。「私は、小説が書物の中で最上(或いは最強)のものであることを疑わない。読者にのりうつり、其の魂を奪い、其の血となり肉と化して完全に吸収され尽すのは、小説の他にない」 ...
[続きを読む](2019.12.28) -
「時こそが神なのではないかという考えに、ぼくは常に執着していた」とはロシア出身の詩人ヨシフ・ブロツキーの『ヴェネツィア 水の迷宮の夢』に記された言葉である。 時こそが神である。その前提で戯曲『大理石』を読むと、「おれたちにとってただ一人の観客は、時間なんだ」や「自分を時間に似せたいと本当に思っている」といった台詞に深い意味が加わる。劇の最後に、登場人物のト...
[続きを読む](2018.10.20) -
主観で語られた「須永の話」 ここでは『彼岸過迄』の約三分の一を占める「須永の話」で語られた内容を検討する。田口の娘で、須永市蔵とは従妹の関係にあるヒロイン、千代子の後ろ姿を見ただけで興味を抱いた敬太郎は、須永と千代子を「結び付ける縁の糸を常に想像」するようになり、須永が千代子のことをどのように考えているのか聞き出す。そして須永の隠されていた感情にふれ、従兄妹...
[続きを読む](2018.09.22) -
「風呂の後」に書かれたこと 『彼岸過迄』は明治四十五年一月から四月まで朝日新聞に連載されていた小説で、「個々の短篇を重ねた末に、その個々の短篇が相合して一長篇を構成するように仕組んだら、新聞小説として存外面白く読まれはしないだろうか」という構想のもとに書かれた。その結果、「風呂の後」、「停留所」、「報告」、「雨の降る日」、「須永の話」、「松本の話」の順に六...
[続きを読む](2018.07.28) -
ドストエフスキーの『死の家の記録』によると、一人の人間を潰して破滅させる最も恐ろしい罰は、一から十まで全く無益で無意味な作業をさせることらしい。意味と目的と達成から切り離されたその罰は、「たとえば一つの桶から別の桶に水を移し、その桶からまたもとの桶に移すとか、ひたすら砂を槌で叩くとか、一つの場所から別の場所に土の山を移して、また元に戻すといった作業」のこと...
[続きを読む](2017.04.08) -
嘉村礒多の作品を一読した人なら、誰でもその苛烈なまでの自己露呈と練りに練った緊密な文体に対し、感動なり拒絶なりを示さずにはいられないだろう。彼の私小説はいわば己の罪の記録であり、羞恥と妄執の刻印である。ただ、そういう私小説の作者にありがちな甘いヒロイズムはなく、書くことで己を救おうとする計算もない。己の心理の内にある卑しさ、汚さを余すところなく吐露し、後ろ...
[続きを読む](2013.10.12) -
戦前にデビューした女流探偵作家の代表的存在でありながら、忘れられたマイナー作家のような扱いを受けていた大倉燁子。その名前が、2011年に『大倉燁子探偵小説選』(論創社)が出版されたことにより、再び一部の人々の口の端に上るようになった。代表作を全て収録しているわけではないが、江戸川乱歩が評価したデビュー作「妖影」や森下雨村を唸らせた「消えた霊媒女(ミヂアム)...
[続きを読む](2012.11.17) -
生田長江は大正時代に活躍した評論家であり、女性による文芸誌『青鞜』の企画者である。翻訳家としても有名で、彼の訳したニーチェ全集が日本の思想界に及ぼした影響は計り知れない。ダヌンツィオの『死の勝利』を訳し、若者たちを熱狂させたのも長江である。ダンテの『神曲』、ツルゲーネフの『猟人日記』、フローベール『サラムボオ』なども訳している。ほとんどは英語からの重訳で、...
[続きを読む](2011.11.26) -
決して不機嫌なのではない。そうかと言って、アンニュイな雰囲気とも微妙に違う何かがそこには......。鑑賞者の視線と交わることのない、うっすらと愁いを帯びたその瞳は、どこか遠くーーいにしえの日々かーーを見つめているようでいて、その実、空(くう)を彷徨っているかのようにも見えてくる。どの絵師の美人画とも質を異にする、独特の雰囲気と存在感。そして孤独感。 橋口...
[続きを読む](2011.08.20)