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「日本共産党論3」が書かれた1950年の時点では、竹内は平和論ないし平和運動に対して、やや距離を置いていた。平和に賛成すれば平和が実現すると信じる人は、無力であるものを有力と認識しているようなものである。そういう人は、「ひとたび現実的な力にぶつかれば、おなじ基盤で力の讃美に移る」。竹内自身、平和のために組織した力が、まるごと戦争に持っていかれるのを目の当た...
[続きを読む](2023.08.10) -
竹内が望んだのは「素朴なナショナリズムの精神を回復」(「ナショナリズムと社会革命」『人間』1951年7月号)させることであり、それは国民文学の創造へと結びつくはずだった。ここで国民文学とは何かという話になるわけだが、これが少々厄介で、「そのものとして存在しないし、イメージをえがくことさえも、十分にはこころみられていない」(「国民文学の問題点」『改造』195...
[続きを読む](2023.08.05) -
小津安二郎監督の『秋刀魚の味』(1962年)を観たのはだいぶ前のことだが、最初にこれを観た時から中村伸郎の存在が気になっていた。中村が演じているのは、笠智衆扮する主人公の旧友で、男だけの集まりで酒を飲みながら毒のある冗談を飛ばす中年男の役だ。皮肉っぽいがお人好し、身なりが良くてモダンで清潔感があり、話しぶりは軽妙、仲間にとっては「面白い奴」なのだろう。でも...
[続きを読む](2020.03.04) -
オスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』の中に、テオフィル・ゴーティエの『七宝螺鈿集』の詩を引用している箇所がある。「もりあがる調べにのりて/胸より滴るは真珠の雫」ーーこれを読んだ私はゴーティエに興味を抱き、近所の市立図書館で岩波文庫の『死霊の恋・ポンペイ夜話 他三篇』を見つけると、時間を忘れて読みふけった。その間、立ち読みの状態で、時代をさかのぼり...
[続きを読む](2016.04.02) -
嘉村礒多の作品を一読した人なら、誰でもその苛烈なまでの自己露呈と練りに練った緊密な文体に対し、感動なり拒絶なりを示さずにはいられないだろう。彼の私小説はいわば己の罪の記録であり、羞恥と妄執の刻印である。ただ、そういう私小説の作者にありがちな甘いヒロイズムはなく、書くことで己を救おうとする計算もない。己の心理の内にある卑しさ、汚さを余すところなく吐露し、後ろ...
[続きを読む](2013.10.12) -
「俺はいま不意に不可思議な恐怖に襲われた。冷たい汗がにじみ出し、手足がぶるぶる震えている。俺の心は目に見える以上の何かを感じている」 これはシェイクスピアが書いた最も残虐な悲劇といわれる『タイタス・アンドロニカス』の第二幕第三場、タイタスの息子クインタスが発する台詞である。初めてこの戯曲を読んだ時、私は森の場面のページを繰る直前に、クインタスと同じような心境...
[続きを読む](2012.08.25) -
2012年5月22日、吉田秀和氏が急性心不全のため亡くなった。その5日後の日曜日、私は新しいパソコンを買うために行った家電屋で、このニュースを知った。ネットがちゃんとつながるかどうか店員さんに確認してもらっている時、アクセスした某ポータルサイトのトップページに載っていたのである。「音楽評論家の吉田秀和氏死去」 高校の図書室にあった吉田秀和全集を思い出す。 ...
[続きを読む](2012.06.02)