k.d.ラング 『アンジャニュウ』
2017.08.19
k.d.ラング
『アンジャニュウ』
1992年作品
お隣アメリカの状況が状況だけに、今やカナダという国がいかにリベラルな場所か説明する必要はなくなったが、20年以上前に筆者に初めて「カナダってアメリカと全然違う面白い国なんだ」と認識させたのは、k.d.ラングだったような気がする。本名キャスリン・ドーン・ラング、アルバータ州のコンコートなる田舎町(人口700人程度)で育ち、1984年にk.d.ラング・アンド・ザ・リクラインズ名義のアルバム『A Truly Western Experience』でデビュー。当初はカントリーとパンクのミクスチュア(通称カウパンク)志向だった彼女は、その後パンク色を徐々に抑え、ソロ名義で発表した通算3枚目『シャドウランド』に至る頃には、古典的なカントリーにシフトしていた。が、見た目はまったくもって〈古典的なカントリー〉じゃなかった。常にノーメイクで、髪は短くして逆立てて、昔の男性カントリー・シンガーが好んだ、フリンジや刺繍で派手に装飾したスーツを着用(この点においては古典的だ)。とことん中性的で、でも大らかな優しさを湛えた美しい歌声は、フェミニン極まりない。日本的な表現を使うなら〈男装の麗人〉と言ったところか? まずアメリカにはいない、前代未聞の異色カントリー・シンガーだったものだ。
そんなスタイルを貫いたゆえに、グラミー賞のカントリー部門で2度受賞を果たすなど評価は高かったものの、保守的なカントリー界とカントリーのコア・ファンには完全に受入れられず(菜食主義者で動物愛護に熱心だったこともマイナスになったらしい)、1992年に発表した5作目にあたる本作『アンジャニュウ(Ingénue=純情な娘)』で方向を転換。先行シングルだった名曲「コンスタント・クレイヴィング」の大ヒットにも後押しされて、30歳にしてブレイクし、一躍メインストリームに進出するのである。しかも彼女はリリースから間もなく、所属レーベルの反対を押し切って、アメリカのLGBT雑誌『Advocate』の表紙を飾り、長年噂されていた通り、同性愛者であることを公表。これほど知名度の高い女性スターがカムアウトしたのは初めてで(北米では男性でも前例がなかった)、その瞬間『アンジャニュウ』は女性間の関係を描いた作品として認識されるようになった。でも予測されたネガティヴな影響はなく、アルバムは売れ続けて、最終的に世界合計で約250万枚以上(うち200万はアメリカで)のセールスを記録している。
では『アンジャニュウ』はどんなアルバムだったのか? この時のk.d.は、ザ・リクラインズのギタリストで、長年の音楽的パートナーとして寄り添ってきたベン・ミンクとソングライティング及びプロダクションでコラボし、前作でも組んだグレッグ・ペニーもプロダクションに参加。冒頭の「セイヴ・ミー」や「ウォッシュ・ミー・クリーン」といった曲ではカントリー色を残しつつ、タイムレスでオールドファッションなスタイルで、彼女の類稀な歌唱力を前面に押し出すアプローチをとった。タンゴ(「ザ・マインド・オブ・ラヴ」)やサルサ(「ミス・シャトレイン」)、ジプシー・スウィング(「スティル・スライブス・ジス・ラヴ」)といったエキゾティックなフレイバーを取り入れて、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、アコーディオン、マリンバなどなどで丁寧にアレンジされた、けだるいスロー・テンポの曲群のエレガンスが、グランジとギャングスタ・ラップ全盛期に異彩を放ったことは言うまでもない。
また本作は、k.d.にとってキャリアで初めてオリジナル曲だけで構成したアルバムだったが、テーマもやはり、タイムレスかつオールドファッション。「コンスタント・クレイヴィング」(〈constant craving〉は〈途切れることのない渇望〉を意味する)が予告した通り、〈満たされぬ狂おしい思慕〉という永遠の定番テーマに貫かれている。前述した『Advocate』誌のインタヴューで彼女は、自分が想いを寄せる女性が既婚者であることも告白。決して手の届かない人を一途に欲して、時には熱に浮かされたように高揚感に酔い、時には朦朧とした状態に陥り、たまに冷静さを取り戻しては衝動を理性で抑えようと試みながら、ラヴの力に圧倒されて呆然としている自分を、簡潔な言葉で描写する。
そんなアルバムのラストに配置された「コンスタント・クレイヴィング」は、他とは一線を画したバンド仕立てのアップテンポな曲で、全編通して聴くと少々唐突に感じられなくもない。本作のリリース25周年を機に2017年7月にアメリカのラジオ局が行なったインタヴューによると、実はk.d.自身も長年違和感を抱いていたといい、最近になってようやく曲の役割を悟ったそうだ。アルバムのテーマを最も直接的に表したこの曲で彼女は、人間は常に何かを欲し続ける生き物だという結論に至り、求めるもの全てを与えられるわけではないことを受け入れているのだーーと。ジェンダーを特定せずにこういう人間の本質を歌い尽した本作は広く共感を呼び、そこに、セクシュアリティ論など入り込む隙間などなかったのだ。
その「コンスタント・クレイヴィング」で第35回グラミー賞の最優秀女性ポップ・ヴォーカル賞を受賞し(ほかにもアルバム・オブ・ザ・イヤーなど3部門で候補に挙がった)、カナダのジュノー賞では『アンジャニュウ』で最優秀アルバム賞、最優秀プロデューサー賞、ソングライター・オブ・ザ・イヤーの3冠に輝いたk.d.。それから20年後のジュノー賞で、カナダの音楽の殿堂入りを果たしている。1985年に新人女性ヴォーカリスト部門で初めてジュノー賞を獲得した時は、ウェディング・ドレスにカウボーイ・ブーツという格好でステージに現れたものだが、殿堂入りに際してのスピーチでは「私が殿堂入りできたという事実は、私自身よりもカナダという国について多くを物語っている。なんたって、k.d.ラングみたいなフリークがこんな栄誉に浴せる国はカナダだけだから」と、誇らしげに宣言。そして、「フリークだって構わない、みんな自分らしく生きて」と続けた。今ならさほど難しくはないことかもしれないけど、自分らしく生きるのが難しかった時代にそれを実践した彼女の言葉には、格別の重みと説得力があったように思う。
【関連サイト】
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k.d.lang 『Ingénue』
『アンジャニュウ』
1992年作品
お隣アメリカの状況が状況だけに、今やカナダという国がいかにリベラルな場所か説明する必要はなくなったが、20年以上前に筆者に初めて「カナダってアメリカと全然違う面白い国なんだ」と認識させたのは、k.d.ラングだったような気がする。本名キャスリン・ドーン・ラング、アルバータ州のコンコートなる田舎町(人口700人程度)で育ち、1984年にk.d.ラング・アンド・ザ・リクラインズ名義のアルバム『A Truly Western Experience』でデビュー。当初はカントリーとパンクのミクスチュア(通称カウパンク)志向だった彼女は、その後パンク色を徐々に抑え、ソロ名義で発表した通算3枚目『シャドウランド』に至る頃には、古典的なカントリーにシフトしていた。が、見た目はまったくもって〈古典的なカントリー〉じゃなかった。常にノーメイクで、髪は短くして逆立てて、昔の男性カントリー・シンガーが好んだ、フリンジや刺繍で派手に装飾したスーツを着用(この点においては古典的だ)。とことん中性的で、でも大らかな優しさを湛えた美しい歌声は、フェミニン極まりない。日本的な表現を使うなら〈男装の麗人〉と言ったところか? まずアメリカにはいない、前代未聞の異色カントリー・シンガーだったものだ。
そんなスタイルを貫いたゆえに、グラミー賞のカントリー部門で2度受賞を果たすなど評価は高かったものの、保守的なカントリー界とカントリーのコア・ファンには完全に受入れられず(菜食主義者で動物愛護に熱心だったこともマイナスになったらしい)、1992年に発表した5作目にあたる本作『アンジャニュウ(Ingénue=純情な娘)』で方向を転換。先行シングルだった名曲「コンスタント・クレイヴィング」の大ヒットにも後押しされて、30歳にしてブレイクし、一躍メインストリームに進出するのである。しかも彼女はリリースから間もなく、所属レーベルの反対を押し切って、アメリカのLGBT雑誌『Advocate』の表紙を飾り、長年噂されていた通り、同性愛者であることを公表。これほど知名度の高い女性スターがカムアウトしたのは初めてで(北米では男性でも前例がなかった)、その瞬間『アンジャニュウ』は女性間の関係を描いた作品として認識されるようになった。でも予測されたネガティヴな影響はなく、アルバムは売れ続けて、最終的に世界合計で約250万枚以上(うち200万はアメリカで)のセールスを記録している。
では『アンジャニュウ』はどんなアルバムだったのか? この時のk.d.は、ザ・リクラインズのギタリストで、長年の音楽的パートナーとして寄り添ってきたベン・ミンクとソングライティング及びプロダクションでコラボし、前作でも組んだグレッグ・ペニーもプロダクションに参加。冒頭の「セイヴ・ミー」や「ウォッシュ・ミー・クリーン」といった曲ではカントリー色を残しつつ、タイムレスでオールドファッションなスタイルで、彼女の類稀な歌唱力を前面に押し出すアプローチをとった。タンゴ(「ザ・マインド・オブ・ラヴ」)やサルサ(「ミス・シャトレイン」)、ジプシー・スウィング(「スティル・スライブス・ジス・ラヴ」)といったエキゾティックなフレイバーを取り入れて、ヴァイオリン、チェロ、クラリネット、アコーディオン、マリンバなどなどで丁寧にアレンジされた、けだるいスロー・テンポの曲群のエレガンスが、グランジとギャングスタ・ラップ全盛期に異彩を放ったことは言うまでもない。
また本作は、k.d.にとってキャリアで初めてオリジナル曲だけで構成したアルバムだったが、テーマもやはり、タイムレスかつオールドファッション。「コンスタント・クレイヴィング」(〈constant craving〉は〈途切れることのない渇望〉を意味する)が予告した通り、〈満たされぬ狂おしい思慕〉という永遠の定番テーマに貫かれている。前述した『Advocate』誌のインタヴューで彼女は、自分が想いを寄せる女性が既婚者であることも告白。決して手の届かない人を一途に欲して、時には熱に浮かされたように高揚感に酔い、時には朦朧とした状態に陥り、たまに冷静さを取り戻しては衝動を理性で抑えようと試みながら、ラヴの力に圧倒されて呆然としている自分を、簡潔な言葉で描写する。
そんなアルバムのラストに配置された「コンスタント・クレイヴィング」は、他とは一線を画したバンド仕立てのアップテンポな曲で、全編通して聴くと少々唐突に感じられなくもない。本作のリリース25周年を機に2017年7月にアメリカのラジオ局が行なったインタヴューによると、実はk.d.自身も長年違和感を抱いていたといい、最近になってようやく曲の役割を悟ったそうだ。アルバムのテーマを最も直接的に表したこの曲で彼女は、人間は常に何かを欲し続ける生き物だという結論に至り、求めるもの全てを与えられるわけではないことを受け入れているのだーーと。ジェンダーを特定せずにこういう人間の本質を歌い尽した本作は広く共感を呼び、そこに、セクシュアリティ論など入り込む隙間などなかったのだ。
その「コンスタント・クレイヴィング」で第35回グラミー賞の最優秀女性ポップ・ヴォーカル賞を受賞し(ほかにもアルバム・オブ・ザ・イヤーなど3部門で候補に挙がった)、カナダのジュノー賞では『アンジャニュウ』で最優秀アルバム賞、最優秀プロデューサー賞、ソングライター・オブ・ザ・イヤーの3冠に輝いたk.d.。それから20年後のジュノー賞で、カナダの音楽の殿堂入りを果たしている。1985年に新人女性ヴォーカリスト部門で初めてジュノー賞を獲得した時は、ウェディング・ドレスにカウボーイ・ブーツという格好でステージに現れたものだが、殿堂入りに際してのスピーチでは「私が殿堂入りできたという事実は、私自身よりもカナダという国について多くを物語っている。なんたって、k.d.ラングみたいなフリークがこんな栄誉に浴せる国はカナダだけだから」と、誇らしげに宣言。そして、「フリークだって構わない、みんな自分らしく生きて」と続けた。今ならさほど難しくはないことかもしれないけど、自分らしく生きるのが難しかった時代にそれを実践した彼女の言葉には、格別の重みと説得力があったように思う。
(新谷洋子)
【関連サイト】
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k.d.lang 『Ingénue』
『アンジャニュウ』収録曲
01. セイヴ・ミー/02. ザ・マインド・オブ・ラブ/03. ミス・シャトレイン/04. ウォッシュ・ミー・クリーン/05. ソー・イット・シャル・ビー/06. スティル・スライブス・ジス・ラヴ/07. シーズン・オブ・ホーロウ・ソウル/08. アウトサイド・マイセルフ/09. ティアーズ・オブ・ラヴズ・リコール/10. コンスタント・クレビング
01. セイヴ・ミー/02. ザ・マインド・オブ・ラブ/03. ミス・シャトレイン/04. ウォッシュ・ミー・クリーン/05. ソー・イット・シャル・ビー/06. スティル・スライブス・ジス・ラヴ/07. シーズン・オブ・ホーロウ・ソウル/08. アウトサイド・マイセルフ/09. ティアーズ・オブ・ラヴズ・リコール/10. コンスタント・クレビング
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