ピーター・ガブリエル 『So』
2018.08.23
ピーター・ガブリエル
『So』1986年作品
もちろん「ソールズベリー・ヒル」を始め代表曲は知っていた。でも、あのヒプノシスが手掛けたジャケットの怖さのせいか、タイトルがないという奇妙なこだわりのせいか、本作に至るまでピーター・ガブリエルの作品をちゃんと聴いたことがなかったが、そういう人間が筆者だけではなかったことは、数字が如実に物語っている。1975年にジェネシスを脱退してから発表した4枚のソロ・アルバムは、地元英国でも10万枚以上売れることはなかったのだから。しかし(辛うじて)初めてタイトルを与えられた5作目『So』(1986年)では、内に隠し持っていたポップセンスが全開。全英チャートでナンバーワンに輝き、アメリカでも最高2位を獲得した上に500万枚のセールスを記録して、36歳にしてメインストリーム・サクセスをピーターにもたらしたのである。
ちなみに、ジャケットのデザインもファクトリー・レーベルの作品でお馴染みのピーター・サヴィルに依頼して、従来のイメージを刷新した彼、より間口が広い作品に仕上げたのは偶然ではなかった。1980年代初めにピーターは、アラン・パーカー監督の映画『バーディ』のサントラを担当。映画・音楽共に非常に重い内容だったため、なにか解放感を得られる作品を作りたかったのだという。そしてまずはコラボレーターを選んだのだが、これがすごい。共同プロデューサーにはダニエル・ラノワを起用し(彼はギタリストとしても活躍)、ドラムスはコートジボワール系フランス人の奇才マヌ・カチェや、ザ・ポリスのスチュワート・コープランド、ベースは当時キング・クリムゾンにも在籍していたトニー・レヴィンやラリー・クライン、トランペットはスタックス・レコードの諸作品で活躍したウェイン・ジャクソン......といった具合に、世界中から才能を選りすぐった形だ。
さらにはサンプラーの前身であるフェアライトCMIやリン・ドラムを駆使して、1980年代半ばのレコーディング・テクノロジーの粋を尽くし、ピカピカに磨き上げられ、でも一定の温もりを維持するサウンドを構築したピーターとダニエル。数秒聴けば時代を特定できるそんな耳触わりの良さは、言わばトロイの木馬だ。そもそもポップと言っても3分台の曲は1曲だけで、大半は5〜6分台に及び(ジェネシス時代は20分を超える曲もあったものだが......)、この人の実験欲やエキセントリシティと、生々しいエモーションや力強い主張が、内側では波打っているのである。
何しろオープニング曲「レッド・レイン」が描き出すのは、タイトル通りの血の雨が、細やかなリズムパターンに置き換えられて降りしきる、世界の終わりの情景。核の恐怖に誰もが震えた時代の気分を捉えたかと思えば、次に待ち受けているのが、尺八の音で始まる説明無用の全米ナンバーワン・ヒット「スレッジハンマー」だ。子供時代に大好きだったというオーティス・レディングにインスパイアされ、ふんだんにホーンを盛ったこの曲は実はかなり露骨な求愛ソングで、ユーモラスではあるものの、その下世話な内容に今更ながら驚かされる。
こんな調子で本作は全編にわたって激しく揺れ動き、「スレッジハンマー」でマスキュリンなエネルギーを迸らせたかと思うと、続くゴスペル調の「ドント・ギヴ・アップ」は女性のパワーの見せどころ。舞台はサッチャー政権下の荒廃した英国社会、失業して家族の大黒柱という存在意義を失った男が主人公だ。〈勝つことが全て〉と教わって育った彼が敗北を喫して絶望しているところに、神なのか母なのか、ゲストのケイト・ブッシュが〈諦めないで〉と救いの手を差し伸べているのである。このジェンダー・バランス、かなり時代の先を行っているが、当時名盤『愛のかたち』を発表して間もなかったケイトとピーターは、ミュージシャンとしても互角の存在だったと言って差し支えないだろう。
そして後半でも彼は同様のコントラストを提示する。その片方の極に該当するのが、ファンキー極まりないヒット・シングル「ビッグ・タイム」。再びネガティヴなマスキュリン・エネルギーを放出し、欲だけに突き動かされた80年代の拝金志向を面白おかしく風刺する曲で(2018年に聴くと、トランプ米大統領を歌っているようでもある)、人権擁護活動にも熱心な社会派シンガーとしてのピーターは、多彩なアプローチで問題提起をしている。時にシリアスに、時にユーモアを交えて。
そんな「ビッグ・タイム」を両側から挿む「マーシー・ストリート」と「ウィ・ドゥ・ホワット・ウィアー・トールド」は、対照的にアンビエント志向。女流詩人アン・セクストンに捧げた、ブラジル録音の前者は、現地の名パーカッショニスト、ジェルマ・コレアの参加を得てブラジル音楽のフォホーの影響をさりげなくミックスしている。そう、ブラック・ミュージックと並んで本作で大きな役割を果たしているのは、ピーターがかねてから関心を寄せていた欧米圏外の音楽だ(彼は1982年からワールド・ミュージックの祭典WOMADフェスティバルを主催していた)。1986年と言えばポール・サイモンも『グレイスランド』を発表し、グラミーの最優秀アルバム賞を本作と競うのだが(軍配はポールに)、南アフリカの音楽に特化したポールと、ソウルやゴスペルもある種の〈ワールド・ミュージック〉と見做して、多様なサウンドを切れ目なく融合するピーターのスタイルの違いを比較するのも面白い。
ならば、デヴィッド・ボウイの『ロウ』の世界にも通ずる後者はどんな曲なのか? 原題に〈Milgram's 37〉とサブタイトルが添えられているように、権威に服従する人間の心理を探った通称ミルグラム実験を題材にしており、歌詞は〈我々は言われたままに行動する〉と繰り返すのみ。マインド・コントロールの怖さをじわじわと感じさせ、次の「ディス・イズ・ザ・ピクチャー」はまるでその続編みたいに聴こえなくものない。ローリー・アンダーソンと共作し、ナイル・ロジャースがギターを弾くこの曲は、元々現代アーティストのナム・ジュン・パイクの作品のために用意されたそうで、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』のようなコンセプトを提示されたと聞けば、なるほど、納得がいく。
従って、大ヒット作にしてはあれこれ考えさせられるアルバムなのだが、ピーターは最後にラヴソング「イン・ユア・アイズ」で、自分にも聴き手にも希望を与えることを忘れない。当初のアナログ盤ではB面の1曲目に配置され、その後CD化された際に曲順が変わり、個人的にはラストにこそ相応しいと思う。歌詞は少々ベタだし、いかにも1980年代的な大仰なプロダクションのバラードではあるものの、だからこそ、ここに至るまでにどんどん深まった不穏な空気を、一気に洗い流すだけのインパクトがある。しかも彼はアウトロになって、強力な隠し玉を繰り出す。「流れる黄金」とその声を形容したこともある、セネガルが生んだレジェンド、ユッスー・ンドゥールという隠し玉だ。ウォロフ語のユッスーのヴォーカルは、ケイトのそれとはまた別の意味で神々しく、欧米の病の解毒剤として絶大な効力を発揮している。
(新谷洋子)
【関連サイト】
Peter Gabriel 『So』(CD)
『So』収録曲
01. レッド・レイン/02. スレッジハンマー/03. ドント・ギヴ・アップ/04. ザット・ヴォイス・アゲイン/05. マーシー・ストリート/06. ビッグ・タイム/07. ウィ・ドゥ・ホワット・ウィアー・トールド/08. ディス・イズ・ザ・ピクチャー/09. イン・ユア・アイズ
01. レッド・レイン/02. スレッジハンマー/03. ドント・ギヴ・アップ/04. ザット・ヴォイス・アゲイン/05. マーシー・ストリート/06. ビッグ・タイム/07. ウィ・ドゥ・ホワット・ウィアー・トールド/08. ディス・イズ・ザ・ピクチャー/09. イン・ユア・アイズ
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