リュシエンヌ・ボワイエ 「聞かせてよ愛の言葉を」
2014.12.04
リュシエンヌ・ボワイエ
「聞かせてよ愛の言葉を」
(1930年)
「聞かせてよ愛の言葉を」は、1930年代にフランスでヒットし、日本でも愛されたシャンソンである。私が持っているレコードのジャケットには、「シャンソン・ド・シャルム(魅惑のシャンソン)の代表ともいうべき、こよなくスウィートな愛の歌」と記されている。ただ、メロディーはたしかにスウィートだが、歌詞の方はそうとばかりも言えない。作者はジャン・ルノワール。映画監督のルノワールとは別人である。
1930年にこのシャンソンを歌い、ディスク大賞を獲得して一躍スターになったのが、リュシエンヌ・ボワイエだ。1903年頃(異説あり)、パリのモンパルナスで生まれた人である。代表曲として、ほかに「私の心はヴァイオリン」「煙の中に」「バラを召しませ」「こんなに小さい」などがある。これらを聴くと、夢見るような愛らしさとまろやかさをたたえた「聞かせてよ愛の言葉を」の歌い方は、必ずしもボワイエの典型的な歌い方ではなく、多様な表現方法の一つであったことが分かる。
ボワイエの歌う「聞かせてよ愛の言葉を」を愛好していた歌人の塚本邦雄は、「銀色のリラ リュシエンヌ・ボワイエ論」の中で、次のように評している。
「......エメラルドとオパールが花影で觸れ合ひ煌めき合ふやうな美しい曲は、彼女がこの世に獻じた不壊の供物である。詞は平凡、綿綿縷縷と戀に醉ひ癡れた女の獨言が繰りひろがり、消えてゆくだけのことで、詩などと呼べる代物ではない。そしてそれでよいのだ。ジャン・ルノワールの曲もほとんど完璧であり、ボワイエの技巧も間然とするところがない。メレが蜜の甘さならボワイエは良質の冰糖の甘さ、その甘さに混るのは仄かな苦みである」
さらに塚本は、彼女の歌唱を讃えた上で、リナ・ケティも、リュシエンヌ・ドリールも、コラ・ヴォケールも、「この歌、この時のボワイエの、脆く儚くしかも甘美極まる睦言には及ばないだろう」と続けている。
曲調は甘く、歌い方も甘いが、そこに「仄かな苦み」がある。この苦みは、私はあなたの愛の言葉を信じていないし、そのことをあなたも承知している、という設定から生まれている。けれども、愛の言葉を聞きたいし、聞いていると心ならずも信じたくなってしまう、と女は歌う。一種の恋愛中毒とみてよいだろう。そして歌詞は次のように結ばれる。
はしきやし
わが寳、いささかおろかにある時も
人の世は折節切に苦ければ
夢まぼろし頼まずあらば
苦しみはたちまち薄れ
慰めの心からなるくちづけに
癒されむ傷
愛をば誓ひ誓ふものから
(塚本邦雄訳)
少し分かりづらい意訳だが、大事なのは頭の2行である。原文を次に示す。
Il est si doux
Mon cher trésor, d'être un peu fou
これを噛み砕いて訳すと、「とても甘美なことなのよ、私の大切な宝物のようなあなた、少しだけ馬鹿になってみることはね」となる。
私がこの歌を聴いたのは高校1年の頃。初めて耳にしたとき、なんて美しい世界だろうと思ったものである。ただ、さすがにフランスの愛の歌だけあって、混じりけのない美しさでは終わらない。愛は時に儚く、生きることは時に苦痛をもたらすという事実を踏まえた上で、真面目に考え込んでしまうよりも、愛の言葉を聞きたい、愛を誓いたい、と歌われているのである。だからといって変に重々しくなったり、説教臭くなったりせず、絶妙の軽やかさと隙のない美しさをもって表現されるから貴いのだ。
先にも述べたように、「聞かせてよ愛の言葉を」は日本でも愛された歌である。この歌で初めてシャンソンを知った人も多いはずだ。作曲家の武満徹も、影響を受けた一人。彼がこれを聴いたのは、1945年の8月初め、労役に就いていたときだという。学徒動員で徴収された見習士官の一人が、仲間を集め、手持ちの蓄音機を使って敵国のレコードをかけたのである。そのときのことを武満はこう語っている。
「それは、当時、私たちが接していた音楽というものと、まるで違うものだったのです。そのころ私たちはほとんど軍歌ばかり歌わされていたし、それに音楽も、敵性音楽といった欧米のほとんどの音楽は禁止されていました。その時、見習士官が私たちに聴かせてくれたのが、いま思えばフランスのシャンソンで、『パルレ・モア・ダアムール』(聞かせてよ、愛のことば)という歌でした。ジョゼフィン・ベーカーという人がそれを歌っていましたが、それは私にとっては初めて知った、軍歌とはまるで違う別の、しかも甘美な音楽でありました。それを聴いて、こんな素晴らしい音楽がこの世にあったのかと思いました。そのことが終戦になってからも忘れられなくて、音楽に自分の関心が集中してきました」
補足しておくと、おそらく武満が聴いたのはリュシエンヌ・ボワイエであり、「ジョゼフィン・ベーカー」とあるのは誤りと思われる。武満自身、そのことを承知の上で、あえて記憶の中にある名前をここに挙げたようである。
「聞かせてよ愛の言葉を」は多くの歌手によって歌われたが、リュシエンヌ・ボワイエを超えるものはない。戦後、ボワイエ自身が吹き込んだレコードも、魅力的だし、イメージを損なうものではないが、戦前の雰囲気は出ていない。1930年の録音の価値は、音質が古くなっても不滅である。
【関連サイト】
リュシエンヌ・ボワイエ(CD)
「聞かせてよ愛の言葉を」
(1930年)
「聞かせてよ愛の言葉を」は、1930年代にフランスでヒットし、日本でも愛されたシャンソンである。私が持っているレコードのジャケットには、「シャンソン・ド・シャルム(魅惑のシャンソン)の代表ともいうべき、こよなくスウィートな愛の歌」と記されている。ただ、メロディーはたしかにスウィートだが、歌詞の方はそうとばかりも言えない。作者はジャン・ルノワール。映画監督のルノワールとは別人である。
1930年にこのシャンソンを歌い、ディスク大賞を獲得して一躍スターになったのが、リュシエンヌ・ボワイエだ。1903年頃(異説あり)、パリのモンパルナスで生まれた人である。代表曲として、ほかに「私の心はヴァイオリン」「煙の中に」「バラを召しませ」「こんなに小さい」などがある。これらを聴くと、夢見るような愛らしさとまろやかさをたたえた「聞かせてよ愛の言葉を」の歌い方は、必ずしもボワイエの典型的な歌い方ではなく、多様な表現方法の一つであったことが分かる。
ボワイエの歌う「聞かせてよ愛の言葉を」を愛好していた歌人の塚本邦雄は、「銀色のリラ リュシエンヌ・ボワイエ論」の中で、次のように評している。
「......エメラルドとオパールが花影で觸れ合ひ煌めき合ふやうな美しい曲は、彼女がこの世に獻じた不壊の供物である。詞は平凡、綿綿縷縷と戀に醉ひ癡れた女の獨言が繰りひろがり、消えてゆくだけのことで、詩などと呼べる代物ではない。そしてそれでよいのだ。ジャン・ルノワールの曲もほとんど完璧であり、ボワイエの技巧も間然とするところがない。メレが蜜の甘さならボワイエは良質の冰糖の甘さ、その甘さに混るのは仄かな苦みである」
(塚本邦雄「銀色のリラ リュシエンヌ・ボワイエ論」)
さらに塚本は、彼女の歌唱を讃えた上で、リナ・ケティも、リュシエンヌ・ドリールも、コラ・ヴォケールも、「この歌、この時のボワイエの、脆く儚くしかも甘美極まる睦言には及ばないだろう」と続けている。
曲調は甘く、歌い方も甘いが、そこに「仄かな苦み」がある。この苦みは、私はあなたの愛の言葉を信じていないし、そのことをあなたも承知している、という設定から生まれている。けれども、愛の言葉を聞きたいし、聞いていると心ならずも信じたくなってしまう、と女は歌う。一種の恋愛中毒とみてよいだろう。そして歌詞は次のように結ばれる。
はしきやし
わが寳、いささかおろかにある時も
人の世は折節切に苦ければ
夢まぼろし頼まずあらば
苦しみはたちまち薄れ
慰めの心からなるくちづけに
癒されむ傷
愛をば誓ひ誓ふものから
(塚本邦雄訳)
少し分かりづらい意訳だが、大事なのは頭の2行である。原文を次に示す。
Il est si doux
Mon cher trésor, d'être un peu fou
これを噛み砕いて訳すと、「とても甘美なことなのよ、私の大切な宝物のようなあなた、少しだけ馬鹿になってみることはね」となる。
私がこの歌を聴いたのは高校1年の頃。初めて耳にしたとき、なんて美しい世界だろうと思ったものである。ただ、さすがにフランスの愛の歌だけあって、混じりけのない美しさでは終わらない。愛は時に儚く、生きることは時に苦痛をもたらすという事実を踏まえた上で、真面目に考え込んでしまうよりも、愛の言葉を聞きたい、愛を誓いたい、と歌われているのである。だからといって変に重々しくなったり、説教臭くなったりせず、絶妙の軽やかさと隙のない美しさをもって表現されるから貴いのだ。
先にも述べたように、「聞かせてよ愛の言葉を」は日本でも愛された歌である。この歌で初めてシャンソンを知った人も多いはずだ。作曲家の武満徹も、影響を受けた一人。彼がこれを聴いたのは、1945年の8月初め、労役に就いていたときだという。学徒動員で徴収された見習士官の一人が、仲間を集め、手持ちの蓄音機を使って敵国のレコードをかけたのである。そのときのことを武満はこう語っている。
「それは、当時、私たちが接していた音楽というものと、まるで違うものだったのです。そのころ私たちはほとんど軍歌ばかり歌わされていたし、それに音楽も、敵性音楽といった欧米のほとんどの音楽は禁止されていました。その時、見習士官が私たちに聴かせてくれたのが、いま思えばフランスのシャンソンで、『パルレ・モア・ダアムール』(聞かせてよ、愛のことば)という歌でした。ジョゼフィン・ベーカーという人がそれを歌っていましたが、それは私にとっては初めて知った、軍歌とはまるで違う別の、しかも甘美な音楽でありました。それを聴いて、こんな素晴らしい音楽がこの世にあったのかと思いました。そのことが終戦になってからも忘れられなくて、音楽に自分の関心が集中してきました」
(武満徹「私の受けた音楽教育」)
補足しておくと、おそらく武満が聴いたのはリュシエンヌ・ボワイエであり、「ジョゼフィン・ベーカー」とあるのは誤りと思われる。武満自身、そのことを承知の上で、あえて記憶の中にある名前をここに挙げたようである。
「聞かせてよ愛の言葉を」は多くの歌手によって歌われたが、リュシエンヌ・ボワイエを超えるものはない。戦後、ボワイエ自身が吹き込んだレコードも、魅力的だし、イメージを損なうものではないが、戦前の雰囲気は出ていない。1930年の録音の価値は、音質が古くなっても不滅である。
(阿部十三)
【関連サイト】
リュシエンヌ・ボワイエ(CD)
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